観光客が行かない「音威子府村」の旅  人口711人 (2020年7月末)   

北海道に「村」は15か所あります。
その中で最も人口が少ないのが音威子府村です。この村には「おといねっぷ美術工芸高等学校」があり、全寮制となっているので120人が村民に入っています。

村は国道40号線で旭川から稚内に向かうと中間地点になります。
また、国道275号は札幌からオホーツクの浜頓別町が終点ですが、音威子府村で国道40号と別れ日本海とオホーツクの岐路になります。

JR宗谷本線の駅では「黒い蕎麦」が人気で、早々に売り切れてしまうといいます。(製造元の「畠山製麺」が今年の8月31日に廃業のため無くなりました)「北海道ゆかりの人たち・砂澤ビッキ」は良く読まれているコラムですが、ビッキのアトリエがあったのが音威子府村です。
また、松浦武四郎が北海道と命名した時のアイディアは、この地でアイヌ古老から聞いたことからとされています。

音威子府村のはじまり
明治36年、御料地の貸付制度が開かれ、翌年咲来・常盤駅逓所が設けられ、長村秀その後塚田藤右衛門が引き継いで取扱人となりました。
明治38年、32戸が入植し、士別から下村庄蔵らが茨内に、剣淵から加藤兼五郎が入地しています。上音威子府地区は、札幌農学校演習林の管理労力の供給源として入植を進め、大正期から入り、この地区の入植者は農業のほか炭焼、演習林の労務に従事しました。
大正元年に鉄道が開通してからは越中・秋田などから入植者も増加し、燃料用の薪や製材にどの需要も高まります。
昭和に入ると木工場が建設され、戦後チップ工場も設置されました。
村面積の80%が森林で占められ、さらに北大演習林と道有林が90%を占め、造林・木工品の製造が行われています。

「北海道命名之地」

旭川から国道40号線で北に向かうと2時間半ほどで音威子府村に到着します。
村の中央に信号があり、右に行くとオホーツク海、左に行くと日本海です。JR宗谷本線と40号線は左で、右は国道275号とかつて天北鉄道がありました。
天塩川は40号と並行しており10キロほど走ると川岸に下りる道が見えてきます。ここを右折し天塩川に下りると「北海道命名之地」があります。

明治2年に蝦夷地は北海道と命名されましたが発案者は松浦武四郎。
幕末にこの場所のアイヌ古老に聞いた「カイ」の意味を元に「北加伊道」と名付けたと碑が立っています。武四郎は『カイ』とは,この国に生まれた者ということで、アイヌの人々は,自らその国を呼ぶとき,加伊(かい)と言い、もともと蝦夷(えぞ=かい)とは加伊 (かい)のことであると考えたといいます。

おといねっぷ
音威子府村は、北海道の村の中で神恵内村(かもえないむら・後志地方)と競う少ない人口で現在700人ほどです。この村を「おといねっぷ」と読める人は少ないと思います。アイヌ語の「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)に由来し、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたために呼ばれていました。

2018年の5月、音威子府村に7人の村長が集まってサミットが開かれました。
「100年先も生き残るために、情報を交換し、相互に協力し合う」との共同宣言を発表しました。参加した7人の村長とは、山梨県丹波山村・和歌山県北山村・岡山県新庄村・高知県大川村・熊本県五木村、福島県檜枝岐村、そうして北海道音威子府村の7村です。

ユニークな美術工芸の村
この村には公立の「北海道おといねっぷ美術工芸高等学校」があります。村の8割が森林のため、この森林を生かし「造形体験を重ね、豊かな心を育む高校」で、自然環境の中で美術や工芸を専門に3年間の高校生活を過ごすことができます。
一学年40名・全学年120名ですが、生徒の2割が道外から来ています。地元出身者以外の遠方から入学した生徒は、寮生活のため住民票を移すことが条件になっています。そのため村の人口にカウントされ、平成29年3月の資料を見ると人口743人のうち15%が高校の生徒・教職員となり村を支えています。
村の広報誌を読んでみると、生徒活動も掲載され村に溶け込んでいるのが良く分かります。学校は東海大学との連携やスウェーデンとの国際交流も盛んで、毎年学生をスウェーデンに送り込む力の入れようです。それらの様子が広報記事に掲載されるので、村人に学生一人一人が知れ渡っているのでしょう。

アトリエ・サンモア(砂澤ビッキ)
札幌で開いた砂澤ビッキ個展に、当時・村立音威子府高校長が訪れ、音威子府に来ることを勧めました。昭和53年、47歳の時に音威子府に移り住むことになります。小学の廃校跡が住居兼アトリエとなり名作が生まれていきました。
天塩川がすぐそばを流れ、筬島(おさしま)は当時15戸50人ばかりの過疎地でした。ビッキは赤い屋根が鮮やかな旧筬島小学校が住まいであり「アトリエ・サンモア」となりました。
昭和54年1月29日にアトリエ開きを兼ねて個展を開きます。猛吹雪のなか村の関係者、札幌や旭川から友人たちが集まり新たなスタートを祝しました。その挨拶で「現代美術と云ったら音威子府をはずさないようにする」と抱負を語ります。砂澤ビッキが57歳で他界したのは平成元年(1989)でした。
砂澤ビッキは旭川で生まれ、阿寒で観光客相手の木彫りで有名になり、鎌倉で彫刻家になりました。アイヌ民族の芸術家としては最高峰の人だと思います。そうして、まだまだ日本だけでなく世界に知られて良い彫刻家だとも思います。札幌の芸術の森に一部作品が残っています。大自然の中で倒れ消滅していくことを計算された作品です。
アトリエ跡は、ビッキが亡くなった後「エコミュージアムおさしまセンター」となりました。国道40号から天塩川を渡ったところにあり、ここから更に2キロほど川を下ったところが松浦武四郎の
「北海道命名の地」になります。