観光客が行かない「増毛町」の旅  人口3,798人 (2022.8.末)                       

Dr.コトー診療所』は、フジテレビ系列で放送されていたテレビドラマで主演は吉岡秀隆  
沖縄が舞台のドラマでしたが、北海道は増毛町雄冬でもロケが行われました。         
 
増毛は日本海にある小さな町ですが、この町を舞台にした映画は7本あります。戦後間もなくの三船敏郎・月形龍之介から高倉健、緒形拳、柄本明たちがこの狭い街を背景に作品を残しました。町に人気があるのは戦後のことかと思えば、江戸時代から俳文や漢詩人なども訪れ、明治には有島武郎、大正には徳富蘆花や若山牧水まで来ているといいます。

「ましけ」の町名はアイヌ語のマシケ(カモメの多い所の意)という意味からです。
元禄時代(1688~1703)に増毛場所が開かれ、その後、宝暦年間(1751~1763)能登の商人・村山伝兵衛が場所請負人となり、和人の定住が始まりました。
天保年間(1830~44)に漁民が許可され、道南から入り漁業集落が形成され「千石場所」とよばれるニシン漁の好漁場でした。

増毛厳島神社

厳島神社

増毛は見どころの多い町で良く調べておかなければ見逃してしまいます。左の増毛厳島神社本殿もその一つです。宝暦元年(1751年)に弁財天を祀ったのが始まりで、増毛の歴史を知ることが出来、ニシン漁繁栄の一端を感じる美術品です。
明治34年建立された本殿は、海の守り神、総欅造り、銅板葺きで、道内では珍しく彫刻が施された神社。豪華なもので、当時の時代背景を見ることができます。拝殿の絵馬や雲龍の天井画などは、北前船が活躍していた時代の様子を伝えています。

秋田藩増毛陣屋

安政3年(1856)、蝦夷地を外国からの侵略から守るため、西蝦夷地と樺太の警備を幕府から命じられたのは秋田藩で「秋田藩増毛陣屋」を置きました。
この陣屋があった跡地には総合交流促進「元陣屋」が建てられています。
秋田藩領となった増毛は、農民や職人、遊芸者まで入り込みましたが国政の変化で兵力の分散、地元の災害などで財政困難となり少数の残留希望者を残して引き上げました。

国稀

明治19年、北海道土地払い下げ規則が制定され、長く増毛に住み漁業・商業を営んで富を築いた者が土地に投資し、払い下げられた土地を使用人に耕作させるようになりました。
ニシンの街として栄華を極めた増毛は、明治から大正、そして昭和初期の歴史を駅前通りに残しています。今は昔の「ニシン物語」遙かな想いは、この建物たちから語り継がれていきます。
最盛期の増毛は、商人の活躍もめざましく、網元や商人が築いた財は、惜しみもなく豪邸に注がれ、絵師や書家、文筆家らが立ち寄るほどの勢いとなり街が飛躍する原動力になりました。数々の時代を通り過ぎてきた木造建築物や重厚な石造りの倉庫群は、歴史を語りかけてきます。
山形出身の藤原筆吉は明治6年に増毛に入り、商業家の小野寺富三郎に仕えていましたが、明治20年に暑寒沢に入植しリンゴ栽培をはじめ増毛リンゴの基となりました。

雄冬(おふゆ)                 
雄冬岬は石狩管内の浜益区と増毛町の間にあります。茂津多岬(島牧村)、神威岬(積丹町)と並んで「蝦夷の日本海三険岬」と呼ばれています。また、厳しさゆえに道路が未整備であったことから「北海道三大秘岬」(室蘭の地球岬・根室の落石岬)ともいわれています。

雄冬の由来は、アイヌ語「ウフイ」(燃える)が転じたもので、断崖が夕陽に照らされて燃えるように赤く見えたことからです。
標高1,491mの暑寒別岳を中心に雄冬岳、浜益岳、郡別岳といった1,200m級の山々が連なり、すそ野は切り立った崖となり海に落ち込んでいます。 
昭和28年、札幌~留萌間は国道231号に指定されましたが、自動車が通行可能なのは、札幌から厚田村を経て浜益村の一部までと増毛~留萌間だけでした。国道231号はながく「幻の国道」といわれていました。

浜益や増毛は江戸時代から鰊の漁場として栄えていただけに道路開削の努力は続けられていました。1857年(安政4年)、浜益と増毛両場所の場所請人を兼ねていた伊達林右衛門は自費で道路を開削します。しかし、それは道と呼べるものではありませんでした。昭和56年にようやく開通。23箇所のトンネルが作られましたが、その最大の難工事が雄冬岬トンネル(878m)でした。特に浜益村千代別から雄冬の間は安政期以降まったくの手付かずで、断崖絶壁が続き、双方の入口とも陸上から行くことかできず断崖に足場を設けて資材や生活物資を船で運んだとされています。

昭和39年の映像「増毛の失われた風景」を観ると、増毛港から船がでて雄冬沖で更に小舟に乗り換えて雄冬部落に到着します。これは映画「駅-station」で高倉健がふるさとに帰る場面で使われていました。昭和39年に道路の開削は映されていましたが開通するのは昭和56年でした。
雄冬の部落は、この滝の上にあります。

留萌(るもい)線 支線 留萌駅~増毛駅                                          
留萌本線の留萌ー増毛間16.7キロは本線よりも遅れて開通しました。
深川ー留萌間は明治41年に開通しましたが、取り残された留萌ー増毛間は第一次世界大戦の影響で資材が高騰し認可は大正7年で、大正10年11月にようやく開業となりました。

2016年12月4日、JR留萌本線の留萌~増毛間16.7kmの区間が廃止。更に、留萌本線の石狩沼田~留萌間は2023年9月30日(土)をもって廃止。
早ければ最終運行日は2023年3月31日(金)となります。 
残る深川~石狩沼田間についても2026年3月末に廃止する方向で合意に至ったとしています。これで留萌本線は全線廃止になります。
これは、2020年3月に深川・留萌道が全線開通され道央道~留萌間を無料高速道路で接続となったことによります。従って、増毛の街まで行くには、チョット寄り道というわけにはいかず遠い街となりました。