野生ホップ発見の地(岩内町)   
      

日本海にある小さな岩内町は歴史も古く興味深い話がたくさんある町です。
1823年、天保の大飢饉による避難民が続々と津軽海峡を渡ります。これが定住し、ニシン漁の大きな労働力となり日本海の蝦夷地は有数の町となりました。岩内がたまり場となったのは、ここから先に積丹半島の神威岬があり、松前藩は「女人禁制」の御触れを出して先へ行かせなかったからです。
明治5年、泊村茅沼炭山の調査をしていた米国人が岩内付近で野生のホップを発見。これが札幌麦酒醸造所の設置となり、岩内郷土資料館前に「野生ホップ発見の地」碑が立っています。ここの館長は町では知識人として知られている方で館内を案内してくれます。岩内町は館長の話を聞いてから回ると何倍も楽しい旅になります。          

観光客が行かない岩内町の旅 
「岩内の開基は1751年とされています」「日本海沿岸で人口1万人を超えるのは岩内町だけです」
岩内郷土資料館の館長が壁に掲げられている年表を指して語りが始まります。実に、ユニークで面白い。

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神仙沼展望台(共和町)

左の絵は、共和町の観光名所「神仙沼」がある峠の展望台から描いたものです。眼下に見えるのは岩内平野。
この景色には、原発の廃棄ゴミで知られることとなった原発交付金を受け取った4町村(泊村・岩内町・共和町・神恵内村)が入っています。岩内平野と言っても、実質平野があるのは共和町だけで、他の町村の平地は沿岸だけで漁業が主たる産業となります。
画面の右に行くと、大正元年に開通した函館本線(当時は小樽~函館間)の小沢駅(おざわ)があります。当時岩内の人口は膨れ上がり、鉄道が引かれる話を聞くと、岩内回りの嘆願をし大騒ぎになります。それが叶えられないとなると、小沢~岩内間の岩内線を開通させました。
(今は廃線になっていますが、鉄道記念館は共和町にあります)

道の駅いわない
岩内町の地形は神仙沼があるチセヌプリ(標高1,134.2 m)の峠を下ってきた海沿いにあります。従って、岩内港まで傾斜となり崖を下った場所の平地に道の駅があります。
ここには岩内線の終点「岩内駅」があった場所で、現在はバスセンターになっています。また、道を挟んで海側に「木田金次郎美術館」がありますが、この場所は日本最大のSL「C62」を回転させた転車台の跡地です。金次郎の長男が設計士であったことから、建物を転車台のイメージで建設し中央が円筒になっています。

たら丸
道の駅に入ると、岩内のマスコット「たら丸」が迎えてくれます。
タラの人形がアスパラガスを持っています。
岩内港は江差とともに千石場所といわれ、鰊の漁期には内地から数千人のヤン衆が入り込み賑わいを極めたといいます。
東京から歌舞伎の吉右衛門、幸四郎でも興行を打ったと言われるほど由緒を持った町でした。
文豪の往来も激しく幸田露伴、巌谷小波なども縁があり、林芙美子は「アスパラガス」発祥の地としての原稿があるほどです。
今は、鰊ではなくタラで、片手に握るアスパラは大正13年に下田喜久三が日本アスパラガス(株)を創立し、その碑も街中に建てられています。ところが、岩内は畑が無いので下田は羊蹄山の東側にある喜茂別に出向き説得に入ります。しかし、アスパラの生産には三年かかるため誰も話に乗りません。諦めず、これは絶対金になると説き伏せて作らせたのが、現在の「アスパラの喜茂別町」となりました。

雷電海岸
北は日本海、南は岩内岳・雷電山などのニセコ山系に囲まれ、雷電海岸にそびえ立つ「弁慶の刀掛岩」や積丹半島を見渡せる円山展望台からの眺めは岩内町の財産です。
この岩内町を昭和29年9月26日に台風15号が来襲しました。
通称「洞爺丸台風」です。風がやんで夕焼け空となり函館桟橋を出航した洞爺丸が、間もなく猛然と強風が襲ってきて横転沈没した事件です。
この台風は岩内町でも大火を引き起こしました。
大火となった原因は、当時火鉢に鍋を被せて出かけていたが強風で屋根が飛び、火鉢も吹っ飛んだといいます。火元は高台で傾斜のある海に向かって飛びました。飛び火し、それで収まるかと思えば風は方向を変え、今度は西から東に、更に東から西へと街を一周してしまい、町は3000戸、漁船80隻とともに灰となりました。しかし、翌日の北海道新聞の一面トップ記事は青函連絡船洞爺丸の沈没でした。
昭和36年、岩内町に講演で訪れていた水上勉は、雷電海岸で町長から岩内大火を聞いて名作「飢餓海峡」が生まれました。

文豪夏目漱石在籍地の碑                                
岩内が面白いのは、この小さな町で北海道の歴史に貢献した人たちが多く出ていることです。あの夏目漱石までいるというので驚きです。
日本はかつて兵隊徴収がありました。これは体格の丈夫な男であれば誰もが出兵しなければなりませんでした。ところが、明治時代は北海道に屯田兵が入植しており、北海道に籍を置く者は徴収を免除されていたのです。屯田兵制度が終了すると廃止されました。
漱石は、これを知り当時文豪のたまり場となっていた岩内に、明治25年から大正3年までの23年間を籍だけを移したのです。本人が来ることはありませんでした。
それを岩内の人は碑を建て、資料館に動かぬ証拠の戸籍謄本を展示しています。

不思議な町                                  
現在の岩内町を訪ねると不思議なことに気がつきます。
「どうしてこんなに飲み屋があるのだろう」
「民宿が多く、それも素泊まりで値段はホテル並み」いくら海釣りとは言っても、ここまでの店も宿も必要はないでしょう。
町の人に聞いて納得しました。隣の泊原発のおかげということです。 泊村で工事が始まると、関係者が大勢集まってきて民宿はいっぱいになり、滞在が長くなります。当然夜の街も賑やかになり、行きつけの店もでてきます。

日本海にある岩内町まで札幌から2時間30分ほどかかります。
行き方は小樽回りと中山峠回りがあり、どちらでも観光のドライブコースとして最適です。特に用事があるわけではないのですが年に2~3回は訪れ、の都度、新しい発見があるので楽しみな町です。