当別町は、石狩振興局管内北部にある町。
国道275号線を北に走ると40分ほどで札沼線の石狩当別駅に到着します。小さな町に大きな「阿蘇公園」があり、多くの碑が建てられています。左の写真は、「と」のモニュメント。
当別の「と」ではないかと思われますが、何故これが建てられたのか私は知りません。しかし、公園を中心に明治4年からの開拓の歴史がびっしりと詰まっています。

阿蘇公園の隣に「当別神社」があります。どこにでもあるような神社ですが、祀られているのは明治24年56歳で亡くなった伊達邦直。

また、この神社の敷地内に「吾妻謙君之碑」が聳えるように建っています。これは、当別村の初代戸長となった36歳の吾妻謙です。吾妻は伊達邦直より9歳年下で、仙台藩伊達家岩出山藩の筆頭家老でした。

仙台藩伊達家一族の移住

明治2年6月17日、274大名から版籍奉還が行われ、土地と人民は政府所轄となましたが、実態は江戸時代と同じでした。
この時、徳川方に就いていた仙台藩は、朝敵として家禄を減らされます。新政府は、ばく大な経費を必要とする開拓事業を分領支配(北海道を11カ国86郡に分割)による開拓方法をとることになりました。この制度は、簡単に言えば殿様は城を取り上げられ、家臣は士分を剥奪、約2万石から50石まで落とされた士族に対する救済策でもありました。
北海道の新天地で未開拓の土地を開いたら、その土地をあげますという触れ込みでした。但し、この制度は明治4年に制定された廃藩置県で脆くも話が壊れてしまいます。(政府の方針が定まるのは明治10年の西南戦争後まで待たなければなりません)

出願した士族の移住が始まります。明治3年仙台藩士の移住は、明治14年までの約10年間に、岩出山藩612人、亘理藩2,648人、角田藩278人、白石藩851人、柴田藩123人の合計4,512人もの人が移住しました。
ところが、新政府には北海道に詳しい者がおらず、土地の分配は机上のものでしかありません。運が良かったのは伊達市の亘理藩くらいで、後は平地が少なく作物に適していない土地でした。
特に、ひどかったのが岩出山藩です。土地の変更を申し出ると、「何を生意気な。まだ官軍に楯突くのか」とかつての宿敵である薩長がはびこる開拓使の非情な仕打ちに、ひたすら頭を下げるばかりでした。

今でも、この歴史が町や市に郷土資料として残っています。石狩郡当別町、伊達市、室蘭市、登別市、札幌市白石区・手稲区、栗山町(角田地区)などです。それぞれに壮絶なドラマを読み取ることができますが、苦難の中で伊達市と並び、「模範開拓村」として名をあげたのが当別町でした。

明治4年 仙台藩士伊達邦直

岩出山藩は1万4640石から65石に減封。城は召し上げられ家臣(736戸の旧臣)の士分を剥奪。 陸奥国玉造郡(現・宮城県大崎市)にありました。
独眼流・伊達政宗が築いた仙台藩の支藩で、亘理藩(後の伊達市)の伊達邦成が有珠郡の調査にとりかかった頃、実兄である岩出山藩主の伊達邦直もまた、新政府からの非情な仕打ちに苦悩していました。侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられ路頭に迷う事を憂い、私財を処分した資金で新政府の推し進めていた北海道開拓を志願します。(当初の開拓はすべて自費でおこなうものでした)
明治2年新政府から許されたのは石狩国空知郡ナイエ(現奈井江町)。さっそく石狩川をさかのぼって現地を見分しますが、洪水のあと地で水浸しのため開墾は不可能。数度に渡る陳情の末に、厚田郡聚富(シップ)(現石狩市厚田区聚富)の荷揚げ場を与えられます。交通には便利でしたが、砂地のため決して良い土地ではありません。

伊達邦直は岩出山に戻り移住者を募りますが、家臣たちは地元に残る者と賛成する者に割れてしまいます。(亘理藩は全員移住を決定するのと対照的でした)

第一陣は明治4年3月2日に北海道へ向けて出発(移住者は43戸160人)。
ところが、繋富は日本海の潮風にさらされた砂地で、せっかく植えた苗も吹き飛ばされてしまいます。越冬するための食糧も確保できず、故郷に帰りたいと申し出る者が続出します。この冬に突入する土壇場で、家老の吾妻は開拓使倉庫の建設を請け負わせてもらう仕事を確保します。しかし、冬は越せても一寸先は闇。吾妻は、再度開拓使に嘆願し同地を訪れた開拓使長官より、移ることを許され、代替地当別の許可を得ます。

当別への移転は明治5年を予定し再度移住者を募りに岩出山に戻ります。ところが、先祖伝来のこの地を離れず農業で暮らしていこうと考える者が多数を占め、さらに主君をたぶらかして北海道に連れていった家老・吾妻の暗殺計画が発覚するほどでした。

第2陣の移住者は44戸182人でしたが、さらに不運は続きます。船は悪天候で座礁し九死に一生を得て小樽にたどりつきます。貴重な食糧や衣類、家財道具は海水に濡れて役に立ちません。明治5年4月、一行はようやく繋富で第一陣と合流して当別に向かいます。移住は明治12年の第3陣(56戸210人)にまで及びました。

入植から2年後の明治7年には、馬が通れるよう石狩への道を広げ、農作物の販路経路を拡大し各自の畑は、次第に広がりを見せてきました。このような時、視察目的で当別を訪れたホーレス・ケプロン(開拓使顧問)は、大麦、小麦、小豆、大豆、ソバなど、様々な農作物の畑を見て「アメリカに劣らぬ出来栄え」と褒めたたえます。そうして、ケプロンの助言でアスパラやトウモロコシ、玉ねぎなどの西洋野菜、また、大麻の栽培にも力を入れていきます。この大麻を開拓使と相談のうえで、製網所を設けました。

入植から10年で耕地面積120ヘクタールと驚異的な広がりを見せ、他県からも移住者が増えることとなります。明治15年には大麻の生産24トンに達し、全道一に輝きます。当別は札幌近郊であるため、視察者する役人は必ず訪れ、邦直の手厚い出迎えを受けました。村政執政のため建てた伊達邸別館が残っており、当時の訪問者記録がわかるようになっています。その横に立つ伊達記念館には伊達家に縁のある品々が展示されています。