北海道神宮

島義勇

2019年の北海道初詣ランキングを見ると第一位は北海道神宮で73万人。この数字は実際にカウントしているわけではなく、警察の警備関係で予想した人数のようです。この人数は全国の中では18位でした。

道内の二位は函館の八幡神社、三位は白石神社。何故白石神社なのかと不思議ですが、これは札幌神社(北海道神宮)の旧社殿を明治5年に移設したのでご利益があるというものです。

上の写真は、北海道神宮の手水舎の後ろに立つ「三神を背負う島義勇像。札幌の基礎を作り「北海道開拓の父」と呼ばれる人です。島は明治2年、東京で神祇官から「開拓の三神」を授けられ函館に着き、三神を背負い陸路札幌に向かい予定地を見定め現在地に決めました。

この銅像の裏側に「開拓神社」があります。初詣の記録はなく、あまり知られていません。祀られているのは北海道開拓の功労者37人です。1938年(昭和13年)に北海道開拓70年を記念して建立されました。

開拓神社

開拓神社の参道入口に鳥居があり、立て札には間宮林蔵、高田屋嘉兵衛、松浦武四郎など37人の名があります。北海道開拓に偉大な功績を残した人の御霊を柱とした神社です。

この37人を調べてみると年代に偏りがありました。
一つは徳川11代将軍家斉(1787~1837)の時代で、松平定信が老中の時です。時は寛政の改革(1787年から1793年)でしたが、江戸から多くの人が津軽海峡を渡りました。
現在の知床から根室、厚岸、更に国後のアイヌが立ちあがった「クナシリ・メナシの戦い」(1789年)前後で、松前藩8代藩主松前道広の命で家老蠣崎波響が描いた「夷酋列像」の時代になります。(左の絵)

松前藩はひた隠しにしていましたが、ロシアの南下も幕府に知られてしまいます。蝦夷地を日本の国土と認識していなかった松平定信でしたが、最上徳内近藤重蔵を蝦夷に送り込みます。高田屋嘉兵衛が国後から択捉への航路を発見するのは近藤重蔵の指示で、これを機会に莫大なお金を手にします。
 1798年、近藤重蔵は択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てます。これはロシア人が立てた十字架の標柱を引き抜き、代わりに立てた日本国土の印でもありました。

間宮林蔵が樺太に渡り「間宮海峡」(1808年)を発見するのもこの時代でした。松平が失脚後も蝦夷地に対する対策は進みます。伊能忠敬に蝦夷地図の作成を命令。松前から根室に至る太平洋沿岸のアイヌ民族囲い込みとして蝦夷三官寺(有珠・様似・厚岸)を1804年に設置。
蝦夷は未開地でしたが、この18世紀末に蝦夷の探検は樺太を含めて和人が沿岸を歩き回りました。
平取に義経神社ができるのもこの時でした。間宮林蔵には樺太で義経がチンギスハーンであることの真意を内密に調べさせてもいたのです。蝦夷の面白いポイントは1800年前後を知ることで、北海道の見方が変わってきます。旅の目的も変わってくるでしょう。

二つ目に多いのが明治に入ってからの人たちです。
明治維新とはいいますが、西南戦争が起こる10年間というものは国の政策は何も決まっていません。改革を先導した人たちは皆亡くなってしまい、後方で見ていた人や西洋に視察で行っていた人たちが新政府の要員となったのです。
 これから如何するかと言ったところで、新政府は朝令暮改の連続で、市民を含めた暴動がよく起きなかったものと思います。

伊達邸宅

ひどかったのは東北地方の各藩です。会津藩は最悪の措置を取られますが、次にひどかったのは仙台藩主伊達家の分家、岩出山藩です。それまで1万4千石あった俸禄をわずか65石に減らされ、領主と家臣の身分も剥奪されました。家臣700人とその家族3千人は帰農を命じられます。領主の伊達邦直は彼らが路頭に迷うことを憂い、私財を処分して得た資金で、明治新政府の推し進めていた北海道開拓を志願します。
ここまでは噴火湾の伊達に来た亘理藩領主伊達邦成たちと同じでしたが、与えられた土地が現在の奈井江でした。石狩川の濁流と洪水でとても作物を作れる状態ではなく、別の土地を歎願するも「逆賊者が何を言う」で相手にされません。されど筆頭家老の吾妻謙は根気よく開拓使に願い出、石狩浜に変更してもらいます。ところがここも砂浜なので耕作に適さず再度願い出るのですが、とうとう自宅謹慎の措置をとられる始末。散々な目に遭いながら、現在の当別町に落ち着きました。この経緯は小説になり、更に大友柳太朗主演で映画にもなりました。伊達藩からは殿様と家老4名が祀られています。

北海道のはじまりはこの人

武田信広

37人の中で最も年代の古いのが武田信広です。室町時代後期の武将で1494年に亡くなっていますから、徳川家斉の時代よりも300年も前の人です。武田信広は松前藩の始祖といわれる人物で、現在の上ノ国町に館を持っていました。37人の筆頭ですから「北海道の始まり」はこの武田信広(蠣崎季繁の娘婿になり家督を継ぎ蠣崎<かきざき>改名)ということになるでしょう。
 明治以降の歴史は浅いですが蝦夷の歴史は長く、北海道のはじまりは、ここまで遡らなければ本当の姿が見えてきません。

松前藩が誕生するのは信広から五代目にあたる蠣崎慶広で、この慶広が武田信広に似てやり手でした。
豊臣秀吉や徳川家康に取り次ぎ蝦夷を売り込みます。関ケ原では徳川方に加勢し、天下を取ると家康から黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認させます。更に、松前藩を認めさせ苗字を松平(家康の幼名)の「松」と前田利家の「前」を取り松前藩とし初代藩主となりました。この松前藩からも2名が開拓神社に祀られています。

37番目の人

37人目の人物は後で追加されました。帯広の農聖といわれた西伊豆の依田勉三です。
依田勉三は「晩成社」を設立し明治16年に現在の帯広に入植しました。
しかし、入植した年にバッタの大群に作物を根こそぎ食べられ、更に翌年もバッタの大群で出鼻をくじかれます。晩成社の社員は皆離れ一人現在の大樹町に開拓地を移し酪農を始めます。
十勝に国の支援が入るのは明治30年に入ってからなので、悪戦苦闘の連続でした。しかし、依田は設立当初から北海道開拓は大器晩成となることを確信しており、今日の十勝の農業と酪農の基礎を実践し尽くします。
昭和29年に追加されて37柱となりました。

この開拓神社に祀られている37人を調べると「北海道通」になるでしょう。