猿払村  日本最北の村

北海道には村が鶴居村など15カ所ありますが、最も北にあり北海道一面積の広い村が猿払村です。

2012年(平成24年)の夏、「道の駅さるふつ公園」で夏祭りがおこなわれていました。炎天下に多くの村人が集まり、これから始まる歌謡ショーのステージに釘付けでした。

登場したのは山本譲二。彼の第一声は「30年前にもここに呼ばれました」。

30年前といえば、1982年(昭和57年)。「みちのく一人旅」がヒットした年が80年で、81年には紅白にも出場した年です。当時の人気歌手を小さな村で呼ぶには、多額の出演料が必要だったでしょう。誰がその出演料を支払ったのか大いに気になりました。

山本譲二を招いた翌年の昭和58年。稚内税務署管内の高額納税者(1000万円以上)99人の内59人が、当時人口3000人余の猿払村の人たちでした。

 貧乏見たけりゃ猿払へ行きな・・・・

猿払村は昭和22年、終戦後の引揚者入植により内陸地の開拓がすすみました。
産業は炭鉱、林業(王子製紙)、酪農が中心でしたが、昭和29年にニシン水揚が激減。沖合のホタテ漁も乱獲により衰退し、漁民の多くが経済的困窮により離村を余儀なくされました。

昭和38年~42年にかけて炭鉱が閉山、炭鉱で働く人たちが村を去り、林業も衰退。この当時「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」と言われるほどの有り様でした。

万博景気の昭和45年 賭け

昭和45年、猿払漁業組合長はホタテの最高権威とうたわれた稚内の水産試験場長に「稚貝をまくなら大量に」という助言をうけます。そうして一大決心をしました。僅かな稚貝を広い浜に向けて放流するやり方ではなく、大量の稚貝を、区域を絞って放流する方法に変えていこうと考えたのです。
北海道信用漁業連合からの多額な融資を受けない限り、夢のまた夢。頭を下げて一年後、ようやく事態は進展。

漁場総面積を4区画に分け、1年目は1区画に稚貝を放流。そして年毎に隣の区画への放流を続けていき、4年目になって初めて1区画目のホタテの水揚げを行います。総事業費は4億6千万円。

昭和46年 年明け協議会 

昭和46年。年明け早々の協議会。「稚貝の確保、漁場の整備、労力に船。組合員全員、一丸となって頑張ろう。ヒトデ駆除にかかる船と油代だけは、組合から何とか工面しよう」すると、組合員から声があがりました。
「出面賃はいくら出る」「弁当代はなんぼくれるんだ」。組合長は、怒りと悲しみで「人をあてにして、上げ膳、据え膳で飯を喰おうというのなら、もういい。こんな仕事は辞めたほうがいい」誰もが言葉を失いました。

ようやく口火を切ったのは年配の組合員で「組合長の言うとおりだ。出面賃も弁当代もいらん」組合員の気持ちが一つに結ばれました。

昭和49年11月 初水揚げ

昭和49年11月、初水揚げの日を迎えます。
(放流した年の調査では稚貝の生存率は7%でした)
いざ予定の海面に下した網を引き揚げますがホタテの姿はありません。すこしずつ海面をずらして行くと確かな手ごたえがあり、びっしりとホタテが詰まっていました。
昭和46年に放流した1400万粒の稚貝は、1700トンもの実りを浜にもたらしたのです。

猿払村のホタテは、遠く香港まで名をはせる特産物となりました。
乾燥貝柱は大振りで厚みがあり、口当たりは中華料理の本場・香港でも多くの料理人が猿払産ならば、品質は確かめるまでもない、プロにそう言わしめることになりました。
(このホタテが夏祭りで販売していました。大きなホタテでした)