国道229号は日本海沿岸を通る道で、江差から小樽まで286.7 kmあります。
北海道で最も絶景を楽しめるドライブコースでしたが、25年前の豊浜トンネル崩落を代表とする危険と隣り合わせの国道でした。
現在は、新トンネルが開削され絶景は半減しましたが魅力ある国道であることに変わりはありません。名称も多彩で、「日本海追分ソーランライン」「セタカムイライン」「雷電国道」「檜山国道」「ニシン街道」と呼ばれています。
島牧村から小樽間を雷電国道といいますが、雷電と言われる本来の区間は蘭越町港町から岩内町のピンノ岬を抜けた敷島内の約15キロをいいます。

セバチ鼻
寿都町を過ぎて尻別川を渡ると蘭越町に入ります。この一帯は山部落を含めて地名を港町といいます。

蘭越町には道の駅が二つあり、この海沿いの「道の駅シェルプラザ・港」と、もう一つは札幌から小樽経由の内陸で国道5号沿いの「道の駅らんこし・ふるさとの丘」になります。平成15年、「らんこし・ふるさとの丘」は、地元産の「らんこし米」や野菜を販売しています。「シェルプラザ・港」は平成17年からで、日本海沿いの国道229号の休憩スポットとしてつくられました。珍しい貝や貝細工の販売で、隣接して「貝の館」もあります。
国道5号と229号では通行量も差があるので、採算を度外視してまで、何故「港町」に道の駅が作られたのか興味深いものがあります。

国道229号はドライブコースといいますが、港町を抜けてセバチ鼻(岬)までの海岸線は車で10分も走れば、磯谷トンネル(セチバ鼻)に入り、トンネルを抜けると岩内町となり、更に長い刀掛トンネル(2754m)に入ります。
おそらく、港町の道の駅は江戸末期から明治の初めにはニシンのドル箱で大いに賑わった歴史があるのでしょう。

雷電岬 (らいでんみさき)
岩内町の西のはずれに雷電海岸があります。かつて、国道229号は雷電海岸の刀(かたな)掛岩(かけいわ)(義経伝説)で陸路をはばまれ、南に行くには海路を利用するか山越えをするかのどちらかでした。
刀掛岩は、ニセコのアンヌプリから西に連なるニセコ連峰の最後に連なる雷電山(標高1211.7m)が日本海に断崖となって、雷電岬へと続き、義経伝説に出てくる弁慶の刀掛岩の奇岩を最後に日本海に落ち込む景勝地となっています。「雷電」名の由来は、枯れ木「ライ・ニ」や、低い出崎「ラエンルム」、また義経伝説の「来年くる」とメイコをだましてここから船出した伝説から「来年」が「雷電」となったという説もあります。
この雷電岬を開削して刀掛トンネル(2754m)が作られました。昭和38年に国道が開通し、温泉宿が開業。かつては9軒の温泉宿がありましたが令和元年に三浦屋旅館を最後になくなりました。この温泉宿があったところから山越えの道があり、雷電峠の山道を4kmほど入ると一軒宿の朝日温泉があります。
明治のころは、駅逓所として大変繁盛していたといいます。日帰り温泉で訪れたことがありますが、2010年の集中豪雨で現在は長期休業中です。

カスペノ岬
温泉郷を過ぎると、すぐにカスペトンネル(全長638m)が見えてきます。このトンネル入口の左に「有島武郎文学碑」があります。駐車場がありますが、刀掛トンネルを出てすぐにカスペトンネルが迫ってくるので、注意しなければ見逃します。

<有島武郎の文学碑>
有島の代表作「生まれ出づる悩み」の舞台が岩内です。岩内に住む画家木田金次郎との出会いから友情にいたる私小説ですが、作中に雷電海岸の景色が書かれています。有島は岩内を訪ねていませんが、小説家は想像力豊かに表現するものです。碑に刻まれている内容が下記です。
   「物すさまじい朝焼けだ。過って海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右
    の肩だけを波の上に現はしてゐる。
    その肩のような雷電峠の絶顛を 撫でたり敲いたりして叢たち急ぐ嵐雲 
    は、炉に投げ入れられた 紫のやうな光に燃えて、山懐ろの雪までも透
    明な藤色に染めてしまふ」 

雷電キャンプ場と梯子滝
カスペノ岬はカスペノトンネルで通過し、次に弁慶トンネルに入りますが、すぐに雷電トンネル(3,570m)に入ります。
入口手前に「敷島内・風の駐車場」があり、かつては雷電キャンプ場がありました。雷電トンネルは「ピンノ岬」までをバイパスで開削した長いトンネルです。
30年以上前になりますが、雷電キャンプ場を家族で訪れたことがありました。
この夏に通ってみると、当時訪れた時の海岸通りは閉鎖されておりましたが、丘を上がると聳え立つ山と絶景の日本海はそのままでした。
平成20年の雷電トンネル開通で、旧道はなくなり断崖を落下する梯子(はしご)滝・雲間の滝や弁慶の薪積(まきつみ)岩など,景勝海岸は見物不可になりました。

昭和36年9月3日、第45回直木賞作家の水上勉が岩内町に講演に訪れます。出版社主催で青年会議所が誘致運動を展開。決め手となったのは岩内の画家木田金次郎でした。
歓迎の花火が打ち上げられ雷電に向かいます。雷電梯子滝前の岩礁では焚火がたかれ、歓迎の席を設置、岩内町長、商工会会長、木田金次郎などが待ちわびていました。前日より海底に仕込んであった「うに」、「あわび」を客人の目の前で海中にもぐり次々と獲ってきては、肴にす る趣向は都会人に大好評となりました。
打ち寄せる波、雷電峠越えの路、朝日温泉や鰊番屋などと共に6年前(昭和29年)の洞爺丸台風と岩内大火の事などが話題となりました。水上は「空はいつもこんな色なのか」「岩内で殺人事件はあるのか」などと質問をしていました。この夜の打ち上げパーティーの席上で求められるまま書かれた色紙には「雷電の懸嵐に花無く海寒し」「海寒く雷電岩に雁帰る」とあり、雷電の印象が強かったことがうかがえます。
また、「岩内にも殺す人が2~3人できたよ」とも話していたといいます。わずか1日足らずの滞在時間で新しい作品の構想が浮かび上がり、一行は次の講演先「歌志内市」に向かいました。
4か月後、湯河原温泉の加満田旅館に閉じこもり、50日かけて「飢餓海峡」(初版本)が完成します。

ピンノ岬は雷電トンネルを抜けたところにあります。岩内市街地にある「岩内郷土資料館」まではもうすぐです。