夷酋列像  (松前町)

私が蠣崎波響の「夷酋列像」を知ったのは15年以上前になります。
NHK(教育テレビ)で、江戸時代に画かれた絵がフランスで見つかったという紹介でした。この時に、アイヌの人たちは「この絵は不自然だ」と意義を申し立てているという話で大変興味を持ちました。
道南の「松前城」に複製画があるというので見に行きました。その時に松前町の教育委員会を訪れ、話を聞こうとしましたが、門前払い。
仕方がないので、この不思議な絵を解明しようと郷土資料館や各教育委員会などを訪ねることとなりました。
調べるうちに、北海道に生まれながら北海道のことを何も知らなかったことを知りました。更に、松前町には3つのパターンがあり、門前払いの松前気質が分かってきました。そうなると開拓で入植した村のルーツやその県民性にまで興味を持つようになりました。

寛政時代(1789年から1801)のアイヌ慰霊碑

寛政時代のアイヌ慰霊碑

根室市の納沙布岬がある半島にはアイヌ民族最後の蜂起「クナシリ・メナシの戦い」の慰霊碑があります。

日本地図には千島列島の北方四島が日本の領土に入っていますが、実質的に日本の最東端は根室市になります。

1700年代の中ごろから、根室の地は国境をめぐって様々な事件が起きていました。その一つが、アイヌ民族の蜂起でした。
この戦いが無ければ、蝦夷地に江戸幕府が係わることはありませんでした。
伊能忠敬が北海道地図をつくる必要もありませんし、松浦武四郎が探検で渡ってくることもありませんでした。ましてや、間宮林蔵が間宮海峡を発見することもなかったのです。
千島列島や樺太の先住民族であるアイヌの人たちは、ロシアの南下政策でロシア人となり、松前藩は戦に敗れ退却を余儀なくされ渡島半島の一角が日本領となり、八雲町とせたな町にかけて高い塀が万里の長城のように山をめぐらすこととなったでしょう。

厚岸から根室への道なき道を、今から250年前に近藤重蔵や間宮林蔵たちが歩きました。納沙布岬から国後が手のとどくような所に見え、根室海峡を高田屋嘉兵衛の辰悦丸が帆を脹らませて走行していました。
2月7日「北方領土の日」は、高田屋嘉兵衛がゴローニンを仲介したことがキッカケとなって成立させた「日露和親条約」の記念日です。

1701年、松前藩は霧多布場所(現在の浜中町)を開設し、これによって知床のアイヌ人は霧多布で交易を行っていました。
1774年に四代目飛騨屋久兵衛が松前藩から霧多布他3場所の請負人となり、後に羅臼の地は根室場所に属していきます。この根室一帯を仕切っていたアイヌの長老がクナシリの「ツキノエ」でした。(トップの写真)
アイヌ民族の蜂起の原因は、場所請負であった飛騨屋のアイヌ虐待がはじまりでした。
アイヌ民族の大きな蜂起は3回ありますが、クナシリ・メナシの戦いが最後となります。この時に、「ツキノエ」をはじめとするアイヌの長老12名を描いた絵が「夷酋列像」です。
この絵を描いた蠣崎破響については「北海道にゆかりの人たち」に書きましたので読んでください。
また、アイヌ民族のはじまりや、和人との戦いなど詳しい内容は結構な分量になるのでブログ「蝦夷の時代」に連載で書き始めています。

根室の旅いろいろ

日本で一番東にある道の駅 

道の駅から

釧路の幣舞橋を起点とする国道44号から約2時間で、道の駅「スワン44ねむろ」に到着します。途中1時間で厚岸の道の駅「厚岸グルメパーク」で一休みできるので快適なドライブコースとなります。
北海道は広いので道の駅がたくさんありますが、ここが日本最東端の道の駅となります。日本有数の野鳥の宝庫「風蓮湖」や「春国岱」が一望できる自然を色濃く残す環境の中に位置しています。道の駅内には望遠鏡が設置されているので、タンチョウ、オオハクチョウなどの鳥たちとの出会いの場です。

日本最東端のJR駅

東根室駅

日本の最も東にあるJR駅は「根室駅」ではありません。
根室駅の一つ手前にある「東根室駅」になります。この駅を迂回して終点根室駅に到着となります。
根室本線(通称花咲線)は、廃車になった貨車を利用した「ダルマ駅」と呼ばれるユニークな無人駅が多くあります。
国鉄民営化前後の80年代後半、貨物部門の合理化により、全国の貨車を利用した駅舎「ダルマ駅」が増えました。
車で一駅ずつ回ってみると、こんな時代もあったと思える景色に出会います。「だるま駅」は全国で50駅以上あるそうですが7割は北海道にあります。特に多いのが花咲線と釧網線(釧路~網走)です。

納沙布岬

納沙布岬

朝日はどこにいても拝めますが、日本で最初に拝めるところは一箇所だけです。
元旦には毎年多くの方が訪れるのが「納沙布岬」で、日の出を拝もうと思えば、根室市街地から岬までは車で30分はかかります。私が訪れた時は元旦ではありませんでしたが、多くの人が岬に集まっていました。
根室市街地から岬を訪れる時には回り方があります。北回りと南回りがあるので、半島の先端を一周して市内 に戻ることです。
朝日を拝もうと思えば急ぐので、市内にある「明治公園」~「トーチカ」~納沙布岬で30分。
明治公園には国の近代化産業遺産のレンガつくりのサイロが3棟あり、これも見応えがあります。
トーチカは戦争の歴史が要塞の形で見ることができます。
帰りは、半島の北側(道道35号)を通り「北方原生花園」があります。季節によって日本の最東端の野の花が咲き揃います。

納沙布岬には北海道で最初に建てられた納沙布岬灯台があります。
その3.7㎞先には歯舞群島の貝殻島が見え、北方領土が間近にあることがわかります。周辺は望郷の岬公園になっており、北方館・望郷の家などの施設があります。北方館を訪れると「北方領土視察証明書」を渡してくれます。また、北方領土返還の著名も受け付けています。

北方領土  北方四島  日魯通好条約

四島(しま)のかけ橋の像

2月7日は、1855年(旧暦では安政元年12月21日)現在の静岡県下田市において日魯通好条約が調印された日です。
この条約は、日本とロシアの間に通商を開くとともに、平和的な話し合いによって両国の国境を択捉島とウルップ島の間と定めたもので、これによって、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島は日本の領土として確定し、これ以後、両国の国境は何度も変わりましたが、北方四島は一貫して日本の領土でした。

明治8年に榎本武揚の外交により「樺太千島交換条約」で千島列島は日本領土となりました。
千島列島の歯舞諸島は花咲郡歯舞村に属していましたが、戦後のサンフランシスコ平和条約で領土権を放棄、帰属未定のまま当時のソ連邦が占拠、現在に至っています。

 

北海道立北方四島交流センター
北方領土とは、択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島からなる北方四島のことです。このことは、報道されているので分かっているのですが、何故いまだに日本に返還されないのか?
そのことを知るには「北海道立北方四島交流センター」に行くと解説があります。政治家は納沙布岬から北方領土の貝殻島や水晶島を良く視察に訪れます。その都度、地元の領土返還運動関係者とも懇談します。
ところが元島民は「これまでの人は視察して帰っていくと、その後言葉が返ってこない。戻ったら必ず心あるメッセージが欲しい」と注文が出されます。この繰り返しを何年も続いています。
これまで、多くの総理や大臣が訪れており、皆さんの写真が飾られています。