鵡川駅 (むかわ町)

鵡川駅

JR日高本線の鵡川(むかわ)~様似(さまに)間が2021年4月1日に廃止されました。廃駅は24駅になります。
6年前の高波による被害を受け、この区間は運休が続きJRバス運行が行われていました。2020年10月、JR北海道は鵡川~様似間116.0kmについて国へ鉄道事業廃止届を提出。
条件として廃止と共にJRバスは民間バスに転換することも決まっていました。
3月31日はお別れのセレモニーで、鵡川駅には多くの鉄道ファンやカメラマンが詰めかけ賑わいました。
昭和40年代、終着駅の様似は襟(えり)裳(も)岬を目指す若者たちで連日2千人が下車。乗客は駅前からバスに乗り換えて「何もない春」を目指しますが、七割が20歳前後の女性だったといいます。
しかし、昭和50年代に入り「襟裳岬」に春が来ることはなく、日高本線が満員となることはありませんでした。
私が4月1日に鵡川駅を訪れた時に、高齢の男性が一人線路に降りて様似方面の鉄路を写し、駅舎内をカメラに収めていました。これからは鵡川駅が様似駅に代わり、苫小牧から5つ目の日高本線終着駅となります。

観光客が行かない旧穂別町の旅

胆振管内

穂別町は、胆振管内東端の勇払郡に設置していた町です。平成18年に鵡川(むかわ)町と合併し新町名を「むかわ町」となりました。
夕張山地南部に位置し、北部は占冠村しむかっぷむらと接し、日高山脈の狩振岳かりぶりだけを水源とする一級河川の鵡川むかわ中流域を占め、町域の約90%は山林でした。
町名はアイヌ語ポンペッ(小さい・川)で、現在の穂別川を指し鵡川水流と合流する地点に町があります。
合併前の人口対比は、鵡川は穂別の約倍。面積では逆に穂別が鵡川の三倍でした。対等合併でしたが人口の少ない穂別の方がやはり不利のようで、町名が無くなるのは人間でいえば顔が無くなるのと同じ、合併の痛みを感じるものがありました。

むかわ町と上部は占冠村

穂別は、松前藩が成立した17世紀初めより商いの場として鵡川場所が開設され、鵡川の上流地域である上鵡川場所がありました。1700年代末には約100人のアイヌ人が山住し干しザケ・シイタケを採っていたといいます。

明治25年、現在の仁和(にわ)に伊達の士族として入植した星進一家が入植したのがはじまりでした。

 

中村平八郎の旧邸宅

明治26年、良質な石油を発見し新潟出身の中村平八郎が移住したのが穂別開拓の先駆者となります。
しかし、明治31年の鵡川氾濫被害で大きな損害を受け事業は中止。

この中村平八郎が邸宅として大正13年に建てた建物が「中村記念館(上の写真)」として保存されています。(国の登録有形文化財)

 

 

 

昔は海の底

恐竜公園

昭和50年、地元のアンモナイト収集家により発見された骨の化石が「クビナガリュウ」のヒレ足の一部とわかり、ホベツアラキリュウとして認められました。
これらは海生爬虫類などの海の古生物化石でした。そこに平成15年(2003年)、後に「むかわ竜」と名付けられる陸で暮らしていた竜の尻尾が発見。その後約10年の発掘調査で、ほぼ全身の骨格を回収することに成功。日本初の発見となりました。
穂別は、以前から化石が発見され「化石のまち」として知られていました。
穂別の住民は「ほべつ竜」とはならなかったことに無念さが残ったことでしょう。穂別の街中には、恐竜をモチーフにしたモノが見かけられます。
町立博物館の庭にはアンモナトの道があり、道を隔てた向かい側には「恐竜公園」になっています。

穂別の町は鵡川町から40分
鵡川を河口から山岳の穂別に向かって車を走らせてみました。むかわ町といえば、「ししゃも」と「鈴木章(ノーベル化学賞)」くらいしか知りませんでしたが、鵡川の河川の大きさには驚きました。
そうして、穂別の街に近づくと原木の工場が見たこともない量で積み上げられています。穂別は、「ほべつメロン」しか知りませんでしたが、道内最大の森林組合がある町でした。
河川の東側を道道74号で上って行くと鵡川を渡る橋があります。
この橋を渡ると穂別の市街地で、むかわ町役場の穂別総合支所があります。恐竜公園や中村記念館などがあり74号を20分ほど走ると占冠に向かう国道274号に出ます。
むかわ町役場にも寄りましたが、やはり穂別のことは穂別役場で聞きたいと支所を訪れました。町を良く研究している地域振興の方を紹介してくれました。役所は、やはり地域を愛する人たちの組織であってほしいと思います。都会では他県から通勤して勤めに入る職員が多いといいます。これでは、非常事態に住民の助けにはなりませんし、河川や山々などの四季を知らなくては町に対する愛情など生まれるものではないでしょう。別れる際に「訪れておいた方が良い所はないですか?」に対して「富内地区」でした。

富内線(とみうちせん)

富内駅(廃駅)

道道74号を橋まで戻り、更に鵡川に沿って10分ほど走ると廃駅「富内駅」がありました。大正12年、国鉄富内線が鵡川~富内まで開通し人口が急増します。また穂別炭鉱(現・杵臼)が昭和20年に開坑し,最盛時の昭和36年には人口1万を超えました。(昭和40年に閉山) この鉄道は、ひだか町の「道の駅樹海ロード日高」の近くまで開通します。更に北部の占冠村を通る根室本線金山駅まで達し、道東十勝へと繋がる計画でした。話は戻りますが、日高本線の始まりは穂別の森林です。王子製紙苫小牧工場の新設は明治43年。鵡川や沙流川の上流にある森林を伐採し河口まで運びだすことは容易なことでした。
大正2年、これが苫小牧軽便鉄道となり、その後、国鉄は買収し様似まで延ばしますが限界でした。十勝は遠く、次に考えたのが狩勝峠回りで新得に入る計画です。毎年「むかわ町穂別流送まつり」が行われています。原木を下流に送ったことをヒントに今は「人間流送競技」になっています。

「ほべつ銀河鉄道」

銀河鉄道

左の写真は富内駅を中心にした公園になっています。
昭和61年に国鉄富内線が廃止された際、富内地区の住民が中心となり、地域の衰退を防ぐために「銀河鉄道の里」とする取り組みがおこなわれました。
駅舎や構内の保存、空へ向けたレール(銀河への橋)、「涙ぐむ目」という花壇の整備など駅周辺を富内銀河公園として整備しました。
平成13年には、愛媛県から小型蒸気機関車を借りてきて1日だけ駅構内を走らせるイベントなども実施。構内の線路とホームは文化庁による登録有形文化財に指定されています。
この背景には戦後初の民選村長となった横山正明(39歳)氏のイーハトーブ構想(宮沢賢治の理想郷)がありました。当時電気のなかった穂別村に村立発電所を設置、全国初のスクールバス運行、村立病院、村立高校の設置など村民の福祉と教育の向上をめざしました。横山正明の生涯はドラマになると思いました。
日本人の政治家も素晴らしい人はいるもので、いろいろ訪ねてみるものです。