大正3年は第一次大戦がはじまった

大正3年4月、上士別の人々にとって、うれしいことが起こった。
中士別4線に、「中央橋」が完成し、渡船や氷橋による危険や不便から解放されることになったのだ。これによって、農作物の士別への運送も便利になり、雑穀

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菊水橋から(上士別町)
水彩画 2015年制作

商人たちによって、安く買いたたかれる口実もへったし、自らの馬車、馬そりで士別へ運びこむことも可能になった。

前年の大正2年には16線に「菊水橋」ができたので川南、成美、三郷、大和新団体の人々も、喜びをもって耕作に励んだ。

 

 

 

〇大正3年(1914)6月28日

オーストリア領ホスニアの都市サラエボでオーストリアの皇太子が暗殺される。8月には全ヨーロッパの国々を巻き込む戦争に拡大した。第一次世界大戦の始まりだった。日本は戦争に乗じて、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告し、ドイツが中国から得ていた権益を収めんと、中国山東省の青島と南洋諸島の占領に軍をすすめた。日本軍はわずか一週間で青島を占領した。

一方戦争当事国は、アジアへの輸出ができないので日本はすきを狙って中国、インド、オランダ領インドネシアなどに商品をどんどん販売した。連合国からは軍需物資の注文が殺到し、製鉄、機械、造船、化学工業などはめざましく発展した。この大戦中に、日本の農業生産高は14億から41億円に、工業は13億から60億円へと増えた。この好景気で「船成金」「鉄成金」などといわれるにわか成金があらわれた。北海道の農村にも波及し、いも、でんぷん、えんどう、さいとうなどが2倍、3倍と値上がりし、開拓を終えた農民たちのふところを膨らませた。農民は「でんぷん成金」「いも成金」と言って、戦争景気に酔っていた。

景気のよいでんぷん工場

澱粉工場は馬鈴薯の作付面積が急激に広がるにつれて増加した。大正8年のピーク時には3200ヘクタールと、馬鈴薯は作付面積のトップとなり、工場も各部落ごとに出現した。

開拓のテンポが次第に遅くなった頃、今の朝日町4線でも澱粉工場が創業された。この地域は耕地が狭く、ほとんどの開拓者は馬鈴薯をつくり澱粉とした。(大正6年ころ)

小樽相場

澱粉産業は明治36年に藤島慶五郎が下士別で生産したのが始まりだった。
明治末から大正年間にかけて、数多くの澱粉工場が建設され、士別市の澱粉製造は、小樽相場から世界の相場を動かすまでになった。各地に工場が建ち、大正5年には澱粉の匂いが町中に流れた。

「澱粉成金」が続出した。

工場は機械の大型化、合理化を図っていった。

水力から蒸気機関に変わり、働く人たちも10人から30人と工場規模によってさまざまだったが、景気のよい時は賃金も高く、一秋で越冬できる生活費をもらった人も多かった。

直径3メートル余の樽に澱粉を沈殿させ、上澄みをとってスコップで取り出し乾燥する。

でんぷん王国士別

大正5~6年の士別は全国一の澱粉の主産地で、菅原太吉を組合長に天塩澱粉同業組合が結成され、後年町議にもなった河口吉三郎やその他が検査員となっていた。その頃の澱粉は木箱で12貫入り、検査員は木箱に穴をあける錐と細い金サシを持って歩き、抽き出した澱粉の光沢や乾燥度合を触感や肉眼でしらべるもの。よければ天塩同業組合の合格証を木箱の上に大きく貼りつけた。

工場で大きかったのは下士別の永峰只七、武徳の大野武四郎、上士別の坂長太郎、小野栄太、朝日のペンケでは大がかりな水車で鈴木新吉、市役所の田淵伸一の先代林三郎も下士別で大きい工場を動かしていた。

三郷の子供たちは大和新団体まで遠い道を歩いて通っていた。
新団体の24線8号に10町歩が売り出されているので引っ越してこないかと誘われた。600円と500円で1100円。そうすれば子供たちも学校に通いやすくなる。森岡の土地は、村田忠三郎に700円で売った。