明治36年夏に550戸の団体移住計画をとりまとめ、道庁に貸付願いをだした。
こうして、新十津川村と士別村の大字上士別へ移住させる段取りをすすめた。
ところが、移住するためには土地、家屋を売って費用を作らなければならない。しかし、あまりにも多数の人が売りに出したので買い手がつかず参加できなかった人がでてきた。
西垣家でも買い手がつかず、初年度は見送り、ようやく翌年4月に吉野団体乙部として60余戸の一員となり、成美地区に入植することになった。ところが、土地の売値が安く、資金不足で困っていたのだ。そこで、常三郎は西垣名義で開墾し、終了後にその土地をもらいうけるという契約をしたのだ。

常三郎が士別駅に着いた日は明治39年3月10日だった。

3月の中頃までに入れば氷橋も渡れるし、馬そりもきく、運送屋に荷物を頼むこともできるので、この時期を設定した。先に移住した人たちは4月10日を過ぎていたので、どろどろの道を、荷物を背負って歩き、引き返してほかの荷物を背にして入植地に歩くという難儀な旅だった。

<氷橋>氷橋は川一面に氷がはりだす12月中旬に、川の両岸から柳の枝を氷の上にならべては、水をかけて凍らせ、だんだんと川の中央にのばし、ついに中央で接続すると、さらに柳の枝をつんで、氷をあつくしたものである。その上は重い荷を積んだ馬そりが続けて通ってもビクともしない。しかし、それが使えるのも3月20日ごろまでのことで、氷をとかして水面が顔を出すと通行禁止となる。

士別駅から二時間ほど掛かって基線の16線(現在の上士別市街地)についた。
荒物屋、金物屋、呉服屋、雑貨屋、鍛冶屋、雑穀屋、蹄鉄屋、などの看板を掲げる小さな商店が、道路の左右に10数件建っていた。

常三郎の馬そりは、16線を更3線直進して19線で右手に折れ、南の方角に向かった。途中で天塩川に架かる氷橋を渡り、間もなく坂道にかかった。ここが三郷だった。    

絵は現在の三郷を描いたものです。