昭和16年、12月8日太平洋戦争が始まった。師範出の若い教員が招集で戦地へ駆り出され、教師が不足していた。文部省は教員不足を乗り切るために、各師範学校に6か月の「准教員要請所を設置し、小学校高等科卒業の成績優秀な者を、出身学校長の推薦で入所させ、その課程を終えると直ちに母校の教壇に立たせた。

武雄は10月に旭川師範学校(当時は北海道第三師範学校)の付属准訓導養成所へ入った。

川南・成美・大和の地域にも戦死の知らせがあいついだ。
今野光雄(昭和17年11月・ガダルカナル島)、北口正夫・昭和19年7月(江南省碓山県)。

武雄は昭和18年3月、准教員養成所を修了し、母校である上士別小学校(当時は国民学校)に勤務することになった。
担任は4年生だった。初任給は40円で下宿代は26円。

 上士別小学校 校歌

 1.   沃野南にひらけたる 天塩の川の久遠に 

   清き流れを鏡にて いざや学ばんもろともに

 2.  旭 菊水 宝来の 水あつまりて一すじに 

   誠の道を慕いつつ いざや磨かんもろともに

 3.  未来ゆたかに開けゆく 我学舎の上士別 

   遠山雪を心にて いざや進まんもろともに

 

明治42年 上士別小学校

昭和20年2月、武雄にも入隊命令がきた。満州第7250部隊への入隊だった。

「集合日時、2月15日午後1時、集合場所大阪四天王寺・・・・・」とあった。2月11日に出発することになった。兼内の松本一夫、工藤登、上士別市街の沢渡勝利の3人が一緒だった。

市内の四ツ辻で見送りの壮行会が行われた。小学校のラッパ鼓隊が愛国行進曲を吹奏し、見送りの児童500人と大日本国防婦人会や市街の人々は万歳三唱した。父と辰雄が馬そりで士別まで送っていった。

戦況は日本に不利に展開していった。3月には硫黄島が全滅。米軍は3月10日B29によって東京を大空襲。それまでの軍需工場を中心とする爆撃は、この時から民家に対する焼夷弾による大量殺人爆撃にかわった。
本土への空襲は激化し、5月には皇居も炎上した。東京・横浜・名古屋・大阪・神戸などの大都市のほとんどが5月までに焼き払われた。6月から、無差別爆弾は地方都市におよんだ。

沖縄での日本軍の抵抗は6月22日におわった。沖縄全島は焦土となって米軍に占領され、日本軍は11万人、非戦闘員は16万人が死んだ。女学生の「ひめゆり部隊」も全滅した。

常三郎の心の中では、日本は負けるという気持ちで、大和地区の住民の間でも、大っぴらに「日本はいつ降伏するのだろう」と話し合うほどになっていた。

土地を持ち、自ら額に汗して耕すものは、たとえ貧乏であっても、心にゆとりをもって暮らすことができる。常三郎は、自分が選んだ道は、苦労だったけれどもよかったと思うのだった。

昭和46年(1971)3月31日不慮の火災に遭い常三郎(84歳)・まん(79歳)が亡くなった。

 

昨年の秋、森岡常三郎夫婦が住んでいた場所に私の兄と立ち寄りました。火事があった時、兄は上士別消防団の一員で団長であった父と一緒に駆けつけ消火活動を行ったといいます。
消火の水は近くの川から引いたそうです。家があった場所は雑草が茂り何もなかったような平原になっていました。

                                おしまい