各藩の蝦夷地開発は財政上の理由もあって庄内藩のほかは、あまり実績をあげることができません。
天塩方面をうけた庄内藩は、積極的に移民を入植させ、浜益場所に8カ村、留萌場所に2カ村を開き、稲・麦などの農耕をはじめ成功しましたが、明治維新で藩士も農民も帰国してその成果はあとかたもなくなってしまいました。
安政6年(1859)、蝦夷地に奥羽6藩(仙台,盛岡,弘前,秋田,会津,庄内)の分領があり和人の村つくりは進みます。
箱館は依然奉行所の管轄でしたが、近郊の戸井・小安・尻岸内・尾札部・茅部・野田追の6カ所は松前地同様となり、妻子を伴う移住者も増えました。
幕府は屯田農兵を計画、貧窮の旗本・御家人から募集して、安政3年(1856)、14人を移住させます。
しかし、救済するつもりでしたが、応募はかんばしくなく、その後も含めて116人にとどまります。一種の屯田兵としての手当てがありましたが、これも明治維新により消滅してしまいます。
慶応3年(1867)10月15日、将軍徳川慶喜の大政奉還、12月9日王政復古の号令発布、270年近くつづいた江戸幕府はくずれ去ってしまいました。
つづいて翌明治元年(慶応4)正月3日、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに明治維新の内乱、戊辰戦争の幕は切って落とされ「蝦夷の時代」は終わり明治維新に入りました。
写真は石狩市浜益にある荘内藩ハママシケ陣屋跡です