天保4年(1833)、松前藩主9代目章広が死去。享年59でした。
家督は見広の長男・良広(よしひろ)が継ぎます。

良広は文政6年(1823年)、9代藩主・松前章広の次男・松前見広の長男として誕生。ところが、文政10年に、父・見広は早死により、祖父・章広の嫡孫となります。

天保4年(1833年)8月11日に松前を出発し、同年9月7日に江戸に到着。
祖父・章広の死去により、家督を継ぎますが、病弱のため将軍への御目見を果たせず、官位も与えられませんでした。
良広は祖父章広の後を継ぎましたが、生来病弱で将軍への拝謁もままならず、遂に隠居し、その一月後17歳で没します。
この間、同族の旗本松前広茂(ひろしげ)が藩政を担当。

天保10年(1839年)、親族にあたる池田政善、柳生俊章、一柳末延と在江戸の親族である松前八左衛門、松前左近、松前七郎等が「藩主良広病弱のため蝦夷地統治困難」と言う理由を掲げて松前藩の領地返還を幕府に申し立てるという事件が勃発。
祖父・章広の代に苦心の末に復領したばかりの蝦夷地を親族達が放棄させようとした真意は不明でした。この領地”返還”運動は幕府が取り上げなかったため事なきを得ました。

天保10年8月24日、死去。享年17。子がなかったため、弟・昌広が養子となり家督を継ぎます。

写真は松前良広の墓
松前一族の墓所は、松前城の裏手の寺町にある法幢寺にあります。