昭和61年に兵庫県津名港で辰悦丸が復元されました。企画したのは青年会議所で、2500キロ20港を巻き込んで江差港まで回航します。この北前船を偶然八戸港で見る機会がありました。小さな船で、高田屋嘉兵衛の操船技術が優れていたことが理解できます。

「高田屋嘉兵衛捕らわれる」は江戸幕府を慌てさせました。

老中協議のうえ、先年の暴行が政府と関係のないことをロシア政府が釈明したならばゴローニンを釈放することを決め、松前奉行に伝え、国後にロシア人がきたらその書面を渡すように手配しました。

リコルドは嘉兵衛を捕らえる前、ロシアの捕虜だった五郎次を国後島に上陸させ、ゴローニンの安否を確認しようと試みます。その結果「ゴローニンは殺された」という答えを持って帰艦しますが、リコルドはそれを信用せず、偶然とおりかかった高田屋嘉兵衛らを捕らえ、再び安否の確認を行います。

すると、「ゴローニンは無事」という回答を高田屋嘉兵衛から得られたため、その事実を確認しようと、彼らをカムチャツカへ連行したのです。

嘉兵衛はカムチャツカに滞在中、ロシア語を学び、リコルドと二人だけで会話ができるまでになります。

嘉兵衛は廻船で各地を回るにつれ、地域の言葉を理解できなければ商売にならず、訛りのある東北弁やアイヌ語などにも聞き取る力を持っていました。したがって、ロシア語も早い上達だったと思います。

嘉兵衛はリコルドとの信頼関係を築いていくと、ある提案をします。
「幕府がゴローニンを釈放しないのは、先年のフォストフの暴行に対する報復であるから、ロシア政府はそのことを謝罪して日本側の誤解をとくべきである」と。リコルドは嘉兵衛に賛成し、ともにジアナ号で三度目の国後来航となり、嘉兵衛が上陸して在勤の幕府の役人に伝えました。報告を受けた松前奉行はただちに使いを国後に派遣、ゴローニン放還の条件としてロシア長官の謝罪文、および先年略奪した兵器などを返却することを要求しました。リコルドはこれを了承してオホーツクへもどり、松前奉行はゴローニンの身柄を箱館に移し、近辺の警備をかためてジアナ号の到着を待ちました。

高田屋嘉兵衛の銅像

護国神社へ通じる高田屋通りに銅像が建っています。リコルドがゴローニンを迎えるために来航した時を再現しているもので嘉兵衛43歳。
帯刀し、右手には松前奉行からの論書を、左手には正装に着替えた際に脱いだ衣装を持つ像です。
この銅像は北方領土の始まりでもありました。

文化10年9月、ジアナ号は箱館に入港、高田屋嘉兵衛はまっさきにリコルドを迎えます。リコルドはシベリア総督とオホーツク長官の弁明書を提出、ゴローニンは釈放されました。
ところが、この時のオホーツク長官の書状には、このような問題がおきる原因に国境が明らかでないことがあるので、このさい国境を画定したいという意向がありました。しかし、この問題は松前奉行の権限外のことであり、翌年の夏、択捉島で会談する約束がなされます。約束どおり、日露両国の使節は派遣されたのですが、幸か不幸か、両者は巡り合うことができず、国境問題は44年後の日露和親条約までもちこされたのです。

ゴローニンは帰国後に日本に関する著書を書きます。その「日本幽囚記」(2年3か月の幽閉)は、好意的に日本人について述べていました。

写真は「日本幽囚記」です。ゴローニンは根室から松前まで歩いて連れていかれるのですが、その途中の日本人の対応に感動したと書いています。