明和6年(1769)、菜の花でうずまる淡路島の貧家の子として生まれますが、船乗りになって頭角を現していきます。やがて操船技術と商品知識を得た彼は蝦夷地との交易に情熱を燃やし、寛政9年(1796)28歳のときに和船では最大といわれる1500石積みの北前船・辰悦丸(しんえつまる)を建造して蝦夷地に乗り込みます。
はじめは蝦夷地の首都である松前城下に入港しますが、この藩の寿命が長くないように思い「これからは箱館」と船を廻すことにします。
箱館は、そのむかし、アイヌたちがウスケシ(湾の端)と呼んでいたところで、室町時代にこの湾の沿岸から日本海の江差にかけて、奥羽出身の土豪たちが大小の館を12築いて割拠していました。そのなかに河野政道という者がウスケシの地に、大きな箱のような館を築いたことから箱館と呼んでいた場所です。
いまは函館山、その形状から臥牛山(がぎゅうざん)などと呼んでいますが、嘉兵衛のころは薬師山と呼ばれていました。いい港ではありましたが、湊の賑わいは松前港に比すべくもありませんでした。
この時の箱館の人家は400戸ほどで、人口も2000人くらい。その多くは漁師とその家族、あるいは交易の商人たちでした。室町から続く箱館の歴史からみて、時代の最後になろうとしていた時期でもありました。嘉兵衛は箱館を本拠に回船業者として飛躍しますが、業績の最大は鎖国日本のなかで択捉航路を開き、北方海運の発展につくしたことです。
最も知られているのは、ロシアの船長ゴローニンを幽囚したことに対する報復として捕らえられ、民間人として日ロ交渉史に第一ページを飾ったことです。
司馬遼太郎は幕末という時代背景に、北前船を軸とし、膨張し始めた商品の流通経済を海上輸送で変貌してゆくさまを独特の語りと文明史観を加えて描きました。
文政元年(1818)嘉兵衛は50歳の初夏に弟の金兵衛に跡目をゆずり故郷の淡路島に退隠します。高田屋は幕府による蝦夷地経営とともに栄えますが、蝦夷地直轄に情熱を失った幕府は文政4年(1821)に松前藩に戻してしまいます。
そのため高田屋に憎悪の目を向けていた松前藩は密貿易という無実の罪におとしいれ、持ち船を没収してしまいます。金兵衛は商売替えをして明治初期まで倉庫業を営みました。
これは嘉兵衛の没後のことでしたが、文政10年に59歳で亡くなりました。