ラクスマンの根室来航から12年後の文化元年(1804)、ロシア第2回遣日使節のレザノフ一行が長崎に来航しました。
ラクスマンの感触では、長崎で交渉すればなんとかなるという判断があったので、レザノフは大いに期待していました。しかし、半年も待たされ、通商はすげなく拒絶されます。
レザノフは憤懣やるかたなく、日本海を北上して宗谷に上陸、さらに樺太を探検します。日本の沿岸防備の不完全を見たレザノフは、翌年北米視察の帰途に日本を驚かせ通商を開かせることを考えて、部下のフォストフらに命じて帰国しました。

文化3年9月、樺太久春古丹に上陸して運上屋を荒らし、漁期明けて越年中の番人4人を捕らえました。続いて、翌4年には、2隻の船で択捉を襲い、南部・津軽の守備隊を撃破して略奪、番人中川五郎治らを捕らえ、さらに樺太・利尻でも暴行を働きます。
しかし、フォストフらはカムチャッカに帰ってから、オホーツク長官に捕縛され、略奪品はみな押収されました。

樺太久春古丹の事件を松前藩が知ったのは、翌年4年3月、藩史が樺太に到着した時でした。直ちに、藩兵を派遣するとともに箱館奉行に報告。
続いて、択捉の報告も届きます。幕府は南部・津軽・秋田・庄内4藩に出兵を命じ、翌5年には、仙台・会津の2藩にも派兵させます。

このさなか1807年(文化4年)、松前藩の藩域と西蝦夷地を没収したうえで直轄化し、松前藩の領地を陸奥国伊達郡梁川(やながわ・現在の福島県伊達市梁川)に移し変えます。