ロシアへの漂流民たち
北方に漂流した日本人・大黒屋光大夫は、井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」が映画にもなったのでよく知られています。
しかし、その他にも多くの漂流民がおりました。蝦夷地の海岸や、エトロフ、アリューシャン列島などへ40の事例があるといいます。更に、漂流したものの、その後の足取りが分からず歴史に名を残さなかった者も多かったのではないかと思われます。
ロシアに漂流した例で最も古いのは、1696年(元禄9)にカムチャツカに漂着した大阪の伝兵衛で、現地人の村で1年近く過ごした後、コサックのアトラソフに見いだされ、モスクワやペテルブルグでロシア人に日本語を教えています。
更に、1710年に東北出身の三右衛門がカムチャツカに漂着し、ペテルブルグに送られ伝兵衛の助手として日本語を教えたといいます。
1729年には薩摩の宗蔵と権蔵がカムチャツカに漂着。やはりペテルブルグに送られ、科学アカデミー付設日本語学校の教師となりました。
そうして、世界初の露日辞典など6冊の本をまとめます。サントペテルブルグにある人類学民族学博物館には、宗蔵と権蔵のデスマスクが今も保存されているといいます。しかし、この二人の存在は日本で知られることはありませんでした。
1753年(宝暦3)には日本語学校がイルクーツクに移され、ここで日本語を習得したロシア人が、後に千島から蝦夷地に渡来します。この人たちが、1778年~1779年にかけて根室や厚岸にやってきたロシア人でした。
ロシアへの漂流民で初めて日本に帰還したのは、1792年エカテリーナ号に乗船しラスクマン一行と根室に着いた大黒屋光大夫らでした。この船にはイルクーツクで学んだ通訳に加えて、日本人2世のタラペズニコフも乗船していたのです。
さらに、1804年(文化元年)に第二回遣日使節「レザノフ」に連れられて長崎に帰還した、石巻漂流民たちは、初めて世界一周を果たした日本人となります。
北海道や千島の歴史は、日露の関係を抜きにして語ることはできません。そこには、漂流民たちが果たした大きな役割がありました。
道の駅「ルート229元和台(げんなだい)」
道の駅「ルート229元和台(げんなだい)」は、日本海を見渡すことができる乙部町にあります。その展望台の一角に一風変わったモニュメントが建っています。
『寛政7年(1795年)、この地の漁師重兵衛・孫太郎・安次郎が小船でコンブ漁に出漁中、強風に遭いダッタン(中国吉林省)に漂流、北京をへて2年後、長崎出島より苦難の末帰郷した。この力を讃え、岬に打つ波涛と潮風にこめ作品とした』
ダッタン漂流記として、この地に残っています。