松前藩主9代目章広(あきひろ)

安永4年(1775年)、8代藩主・松前道広の長男として誕生。
寛政4年(1792年)10月28日、父・道広はアイヌ蜂起事件の責任を取る形で強制的に隠居となり、18歳で家督を継ぎます。11代将軍・徳川家斉にお目見え、従五位下若狭守に叙任しました。

寛政元年にクナシリ・メナシの戦いが起こり、藩主道広は家老であった蠣崎波響に「夷酋列像」を描かせ、翌年の寛政2年に完成。この策は上手くいったかと思いましたが、寛政4年、幕命により急遽隠居となり襲封となりました。

しかし、9代目章広は父親である8代目道広の後始末と新しい時代に対応すべく悲惨な藩主となります。

寛政4年ロシアの遣日使節ラクスマン一行の根室への来航と、翌年城下松前での幕吏宣諭使(せんゆし)の応接への対応となりました。

寛政8年(1796)、イギリス船ブロビデンス号が内浦湾のアブタ(虻田)沖に渡来し、対外問題の処理に忙殺されます。この問題に隠居の父が乗り出す始末。

そうした流れの中で、寛政11年(1799)に東蝦夷地(太平洋側)を幕府直轄地となりました。

隠居をしていた道広が蠣崎波響(波響は実の弟)に「大原呑響に松前藩の文武の師を務めてもらいた旨頼んでほしい」と頼みます。呑響は1年限りの条件で松前に来るのですが、このことが松前藩に大きな災いをもたらすこととなりました。
ロシアが南下してアイヌ民族と接触していることを、道広は幕府に隠していたのですが、呑響に気づかれ「ロシアと手を組もうとしている」と察せられます。

幕府は松前藩から北方警備の役目を取り上げ、東蝦夷地を幕府直轄にし、8年後の文化4年(1807年)には西蝦夷地の支配権も取り上げ、松前藩を陸奥国伊達郡梁川(福島県栄川)へ国替させました。

梁川にあること14年,その間幕閣に復領工作を行い、文政4年(1821)松前に復します。
名目は、ロシアからの脅威が低くなったということでしたが、内実は父・道広の伝手で将軍・徳川家斉の父・一橋治済に接近、老中水野忠成への莫大な賄賂攻勢を行い、家斉に請願した結果であることが、「水戸烈公上書」や「藤田東湖見聞偶筆」に記されています。この賄賂の資金に、またまた蠣崎波響が活躍します。

復領後は蝦夷地全域を直轄し,場所請負人の運上金他の収益に依拠して擬制的蔵米知行制を実施し,また幕府に対し家格の1万石以上への昇格運動を展開し,天保2年(1831)ついに1万石格となりました。

天保4年(1833)、死去。享年59。文政10年(1827年)に次男・見広が死去したため、家督は見広の長男・良広が継ぎました。

写真はラクスマン根室来航