近江商人の両浜組は、松前藩と密接な関係をもって活動していました。
寛文9年(1669)のシャクシャインの戦いで動揺する松前藩に対して、近江から急便をもって見舞状が寄せられます。それに対して、藩政の実権を握っていた家老の蠣崎蔵人が、自ら筆をとって返書を出しているのです。
両浜組との関係は、家老が自ら対応する重要なものだったのでしょう。
両浜組は藩への直接の出金で重要な役割を果たしていました。
天明元年(1781)、両浜組が藩への貸付金の記録があります。
1730年ころまでは、貸金は年々返済されて問題はありませんでしたが、以後未返納の分が次第に重なってきているので整理してみた、との前書きがあり。
「1751年(宝暦元年)に2500両の貸し付けを行ったが、利子付けの約束となっているが1500両分の一部が返済されたほか、無利子の約束の1000両の分はまったく返済されていない、という状況が記されています」
参勤交代で江戸にのぼらなければならないので、その経費を貸し付けたもので、2500両は参勤の経費の全額に当たる大金で、往復二か月以上もかかる大名行列の旅費をすべて、両浜組が用意したものです。
この帳面では、宝暦元年~天明元年の30年間に、参勤交代、婚礼などの経費8200両を藩へ融資、そのうち元利4771両余が未返済となっている、としています。
元禄期(1688~1703)になると松前藩の財政は悪化、商場の経営に変化が起きてきました。
享保期(1716~1735)には、商場を共同で経営する家臣や、運上金(課税の一種)を取って商人に経営を委ねる者も現れるようになります。
このような中で、松前城下における商人の体制も変化が起きてきました。
近江商人の独占が崩れ始めます。近江商人がすべて没落したわけではありませんが、多くが新しい流通状況に対応できなくて没落したものです。
商業の発展に伴って、福山・江差・箱館のいわゆる松前三港が繁栄していきます。江差は日本海に面し、鴎(かもめ)島が波浪をふせぐ天然の良港で、鰊漁を中心とする小漁村でしたが、延宝8年(1678)檜山奉行が置かれて急速に発達し、鰊の最盛期には「江差の春は江戸にもない」とうたわれていました。
1758年ごろには30人前後出店していた近江商人は、幕府が蝦夷探検を行った天明6年(1786)には三分の一に減っていました。
写真は今も江差町に保存されている「横山家」と屋号
江差町については北の美術館「江差町の伝統」にも書いています。