蜂起の参謀を担ったのはシャクシャインの娘婿越後庄太夫(鷹待の庄太夫)でした。
戦いの第一弾は6月14日から始まり「商場に来る日本商船を焼き払う」は大成功でした。7月に入ると第二弾「松前藩を攻め滅ぼす」に入ります。

松前まで攻め上ろうという次の作戦が釧路や十勝の衆から開始されます。
厚岸の衆がまず釧路・十勝沿岸を南下し、白糠や音別の衆と合流しながら襟裳岬を越えて、シブチャリ(静内)に集まってきます。シブチャリに到着する頃には800人ほどに膨れ上がっていました。このような戦いで集まるのは初めてで、群集心理と武器や食糧を手にしているので意気盛んとなりました。
 7月中旬、いよいよシブチャリ(静内)に集まった800人が動き出します。

「和人船襲撃により、松前までの食糧と武器は手に入れた。東も西も島中のアイヌは同心となった。更に仲間を増やし、一挙に松前まで攻め入ろう。シコツ(千歳)には石狩と余市の衆が待ち、ノダオイ(八雲)にはセタナイ(瀬棚)や内浦の衆が待っている。さあ出発だ」

シブチャリ(静内)を出た軍勢は、海岸沿いに西へ西へと進み、仲間を増やし一行がシコツ(千歳)に着いた時に、日本海の余市・積丹の手勢も到着していました。
しかし、石狩のハウカセの姿はありませんでした。
増毛の襲撃はありましたが、石狩ではなかったのです。石狩は中立に回りましたが、軍勢は2000人を越えていました。

浦河のツノウシとマクワ、幌別(登別)のチメンバ、新冠のウエンスルシを大将とする先陣がシコツを出発します。
一行は、二年前に噴火した樽前山の隕石が打ち寄せた浜辺を進み、エトモ(室蘭)へ到着。エトモでも待ち構えていた手勢で更に人員は増えました。
しかし、これを見ていた虻田アイヌは松前に走ったのです。

エトモ(室蘭)を過ぎると、6年前の有珠山噴火で吹き出した溶岩や、折り重なる倒木、さらには降り積もった隕石が足場を奪います。ここからが戦線を左右する通行の難儀続きの場所でした。
有珠の先は、蝦夷で一、二を競う交通の難所。一行を悩ませたのが「虻田の礼文華・静狩峠」で、武器と食糧を持ったアイヌの軍団がこの悪路で分断されてしまいます。

静狩峠を越えると長万部平野が眼下に見渡せて、その先は太平洋が大きく広がります。

国道37号で峠を降りで右折すると太平洋を左に見て一直線のドライブコースとなり、国道5号の交差地点を過ぎると長万部駅の市街地に入ります。
そうして、ドライブイン街道となり、その先が戦場の国縫(くんぬい)です。