西蝦夷地の異変
7月5日、今度は西蝦夷の異変が伝えられます。大船清三郎の持ち船に乗っていた水主(かこ)が、深手を負って松前にたどりつき襲撃されたと語ったのです。
東蝦夷異変の15日後に西蝦夷もシャクシャインに加担したことを知らされます。松前藩は、これで蝦夷地には誰も味方がいないことを悟りました。
松前藩の家臣は80余名ほどなので、町が騒然となり津軽に逃げだそうとしたのは当然のことでした。
松前藩は、すでに第一報を江戸に送っていましたが、第二報の使者を江戸と東北の藩主あてに走らせます。使者には「百挺の鉄砲を貸してほしい」と伝えさせたのです。百挺しか持たない松前藩が、ここまでに鉄砲を貸して欲しいと頼んだ数は五百挺にもなっていました。
和人地と西蝦夷地の境には関所を設けており、この場所は現在の熊石です。
7月6日、松前藩は西蝦夷の番所である相沼内・熊石・関内に松前左衛門、蛎崎采女らを大将に雑兵を含めて500人を送ります。
熊石から50キロ北には、セタナイ(瀬棚)首長のアイコウインがいたので、それを封じ込めようとします。更に、人を増やし7月初旬には1000人を越えるほどのものものしさでした。
6月14日からのシコツ近辺での和人船襲撃の手口は、荷揚げの手伝いや再会の挨拶、商いのふりをして和人船に乗り込み、突然切り込んで、周囲の小舟から毒矢を降らせ乗組員を殺して食糧や武器を奪うというものでした。
シャクシャインの元には、東・西蝦夷と各地からの戦果が次々に知らせられます。特に、増毛からの戦果には石狩の首長ハウカセが立ち上がったと思ったので皆喜びます。
東蝦夷地は幌別(登別)から白糠までの間で商船11隻、西蝦夷地は歌棄(寿都)から祝津(小樽)のあいだ、および増毛で商船8隻の船が襲撃され、舟子・鷹待など東蝦夷地で120人、西蝦夷地では153人、合計273人(一説には355人)の和人が殺されました。
その内松前藩以外もの者は198人でした。いまだかってない、全道的なアイヌ民族の大蜂起でした。
しかし、これはシャクシャインが激を飛ばした助走段階でした。