慶広は初めて豊臣秀吉に面会した時に「鷹」を献上し、徳川の江戸幕府に対しても毎年献上しました。
この献上鷹の松前からの道中は、各藩の大名領へ手配され大名行列のようなものもしさであったといいます。
時代劇で殿様が鷹狩りを楽しむ映像を観ますが、蝦夷の鷹は人気があり松前藩にとっては大きな財源となりました。
五代将軍綱吉時代は献上を差し控えましたが、八代吉宗の時に復活、当時は鷹狩りの隆盛期で全島に直領・家臣知行領合わせて鷹打場が390カ所あまりに達していました。
(鷹は場所で優良があったようで、現在の知内産が特に優れていたと読んだ記憶があります)
鷹打人(鷹待)は、毎年8月から翌年1月までのあいだに、鳩や鶏などをおとりにして鷹を捕まえます。
深山・幽谷の巣鷹(ヒナ)はアイヌが捕まえてきました。このさい、目貫(めぬき)・小柄(こづか)・小刀などを巣の中に置いてこないと、鷹は巣をかえると信じられていました。鷹打場の近くでは野火・鉄砲・高声・伐木などは禁じられ、福山城下では鷹の餌用に、家ごとに犬三頭飼うことを命じていました。
鷹は一歳鷹を黄鷹(きだか)、特にその雌を「弟鷹(おとだか)」と称し、芸をするので最も値が高く、献上鷹は弟鷹でした。
ハヤブサやハイタカなども捕獲しました。
寛文(1661年~1673年)のころで1~2000両、享保(1716年~1736年)のころには2~3000両の販売収入がありました。
享保元年は一年間に黄鷹だけでも80隻。幕府からの恩借米返済の代金に鷹をあてたこともあります。
しかし、天和元年(1681)鷹一隻35両の慣例ができましたが、正徳元年(1711)に雌一隻16両、二歳以上は5両となり、宝暦(1751年~1764年)ごろからは鷹が激減し、藩は有力な財源を失うことになります。