アイヌ民族と和人との戦いで、蝦夷地には民族間の大きな溝ができました。
それまでは、お互いに共存共栄の意識がありましたが、コシャマインの戦い後は敵対視した関係となり和人地という垣根が出来てしまいました。

和人地の推移

こうなると、この和人地の地盤をめぐる争いとなってきました。和人の総大将となった蛎崎(武田)信広は、西の上ノ国から東の志海苔(箱館)までの豪族を支配することとなります。

しかし、総大将とはいっても蝦夷の管僚は安東氏でした。蝦夷管領は蝦夷守護とも津軽守護人ともいわれていました。
執権北条氏は、海運ルートを重視して勢力をはかっていたので十三湊を拠点とする安東氏は、その関係で起用されまたとみられます。安東氏は津軽の十三湊を拠点とし、はじめは津軽地方の治安警察的性格のものでしたが、居住する蝦夷および往来する蝦夷を通じ、しだいに蝦夷の地へ勢力を広げていきました。
15世紀半ばに、南部氏との争いに敗れた安藤氏は十三湊を放棄して蝦夷島にのがれるはめになりましたが、本領を失ったわけではなく蝦夷支配権は安東氏のものでした。(蝦夷の時代5 津軽の十三湊)

和人地とはいっても渡島半島の南端部程度で、アイヌの地盤と人口は比較にもなりませんでした。自由に交易をしたいアイヌと交易を独占したい蛎崎一族(後の松前氏)との間には、延々と代を継続して戦いが続いていきます。

永正9年(1512)4月、アイヌ軍は箱根、志苔、与倉前(志苔と湯の川の間)を襲い、館主は敗れ戦死、子孫たちは蠣崎に臣従しました。
翌年、大館がアイヌに攻撃され相原、村上は自殺して両家も滅亡しました。
大館の滅亡はアイヌ襲撃によるとされていますが、実は蠣崎光広(武田二代目)の謀略と伝えられています。