1443年、十三湊の安藤氏は新勢力の南部氏の攻撃をかわし切れずに蝦夷に敗走し、安藤配下の豪族たちも次々と海峡を渡ります。
その後、渡島半島南部に館を築きアイヌとの交易を行うようになりました。
これは、本来はアイヌたちの生活の糧で、東北一帯の和人に直接行っていた取引でした。豪族たちは、交易と漁業生産に従事し、さらに福井の若狭を中心とする日本海交易に参加し拡大を図ります。
この交易の最大の商品が「昆布」だったのです。
恵山岬を挟んで鹿部から戸部村にかけて採れる「真コンブ」で、特に南茅部で採れたものは逸品でした。
この昆布が津軽半島の十三湊に入り、新潟から若狭湾で陸揚げされ京都、大阪に入ります。大阪から瀬戸内海の「鞆の浦」を経由して博多、更に中国から欧州にまで流通されることになります。
昆布出汁が関東ではなく関西なのは、この時代から始まっていたのでしょう。
これを担っていたのが、地の利のある「志海苔館の館主小林」でした。
安藤氏は蝦夷の支配権限を持っていましたが交易は別問題で、アイヌから持ち込まれる物品を巡り豪族同士の抗争が始まります。
そうして、そのしわ寄せはアイヌに対する抑圧と収奪強化に直接つながっていきます。