明治17年5月 第3次移民が入植

 
澤は、社員や小作人の指導と共に信仰による一致協力を求めました。
私立赤心小学校を教会兼用として建て、日曜日は安息日としてキリスト教講話や
道徳などの寺小屋式教育を始めました。
 
北海道開拓の村」に「旧浦河公会会堂」を移築し保存されています。
赤心社の指導者の多くがキリスト教徒で、明治19年「浦河公会」が組織されます。この会堂は、2代目の礼拝・集会所として明治27年(1894)に建てられたもので、貴重な写真などが展示されています。
 
 
精神的団結が開拓の困難さに打ち勝つ重要な要素となったといえます。
成果が次第に上がり、耕地もふえ商店や醤油の醸造部も設けることができました。
明治19年の株主総会で、澤は『冷害には混同農業以外にない』と混同農業を実施する演説を行ない、株主たちに多くの感銘を与えています。
 

日高駒の育成はここからが始まり


牧場を作り道産雌馬十数頭南部産種雄馬を入れ、混合農業が本格化していきました。後
道庁からアルゼリー、トロッター両種馬の管理をまかされます。社員を真駒内種蓄場に行かせて技術の習得もさせています。
澤は農民も指導し、これが全国的に知られる名馬日高駒の発祥になりました。
伝道師田中助の按手礼式、並びに元浦河公会の設立式などを行ない開拓事業における精神的基盤を築きあげ今日の浦河町の基盤を作りました。