この地は旭川村字忠別原野の人跡未踏の地でした。
明治28年に忠別原野の貸付が始まり、香川県人30余戸と富山県人10余戸等が東旭川兵村から入地したのが始まりです。
翌年、基線道路工事が行われ開通、その後広部農場、岐阜農場などが開設しましたが水害や凶作で離れる者も出ました。そのため農業奨励対策で水田耕作への転換が図られることになります。
明治29年、米の試作で実績をあげ土功組合を設置、灌漑溝を建設し米作りに力を入れました。
上川地方は冬期の副業として藁細工、第七師団の旭川移設で馬餌として稲わらの需要があり水田造成が急増します。
明治30年、旭川駅付近で旅館経営をしていた松山多米蔵がアイヌ人を案内に探検の途中温泉を発見。
3年後に温泉旅館を始め松山温泉と呼ばれていましたが、昭和12年、温泉地名を松山温泉から天人峡温泉と統一しました。
天人峡温泉から北東600mに羽衣の滝、東へ800mに敷島の滝があり、旭岳登山への玄関口にもなっています。