東北藩の処分 

明治4年、廃藩置県が行われ幕府時代の藩から県に変わりました。
明治8年「札幌郡琴似村屯田兵」の募集は「仙台」「斗南(旧会津)」「庄内」という東北戦争に破れた藩が対象であることは明らかでした。

屯田兵制度は当初は北方防衛、開拓、士族の受け皿が目的でした。官軍にはむかった士族を北海道へ移住させ、不平分子の芽を摘み取る意図がありました。募集条件は、18歳から35歳迄の身体強壮な者とされ、応募者には、家屋のほか、鍋、釜、寝具などの生活用品、農具が支給され、入植から3年間は給助米があるとされていました。これは少なくとも志願すれば、餓死することは無いということです。

最初の屯田兵、琴似へ

初めの屯田兵として琴似へやって来たのは、 斗南藩と庄内藩(酒田県)の人々でした。
明治8年5月13日までに青森港へ出頭せよとの屯田事務局の通知が既にわたっており、第一陣223名には同日「乗船の注意書」が手渡されます。注意書には船の順番のほか、「便所の以外の場所で、大小便をしてはならない」といった細かな事まで記載されていました。

移住者の多くは、蒸気船に乗るのは初めての経験です。また、これから向かう北海道のことなどほとんど知識がなく、ましてや「琴似」というのが、一体どんな場所なのか想像もできません。
翌14日午後3時、通済丸は青森を出航し2日後の16日に小樽に入港。小樽の宿屋などで一泊しまし、これから入居する兵屋の番号のくじ引きも行われました
翌17日、小樽を徒歩で出発した一行は、銭函を経て36kmを踏破、琴似に入地したのは午後6時頃と記録されています。

 
「開拓使最初の屯田兵」に以下のような記述があります。
「時は本道は草萌え出ずる頃、亭々たる柏の密林の中に建てられたるささやかな此の兵屋に落ち付き、遥か故郷を後にして始めて蝦夷地の風景に接した人々は、荒涼寂漠たる感があったが、これ我が住居なりと思へば、いささか慰められ安堵の思を為し、将来に対する希望が湧き出たといふことである」

明治8年5月

斗南、庄内の人々が琴似に入って4日後に今度は仙台亘理の92戸が入地し、兵村は急に賑やかになります。亘理の人々は既に屯田兵制度に先立って、主従一体となり胆振有珠の開拓を進めており(この開拓が、今日の伊達市の基礎を築くことになります)、北海道の事情について知識があったものと考えられます。
兵屋59番から66番までに酒田県人、67番から115番までに斗南藩の人々、106番から206番までに仙台亘理の人々が落ち着きました。
現在も毎年5月27日にとりおこなわれる琴似神社の春祭は、この最初の屯田兵が琴似に入地した日を記念したものです。

琴似屯田兵が現役としての役目を終えるのが明治24年3月。16年間に及ぶ兵役でした。このあと予備役が28年6月までの4年、それを終えると後備役に編入され、徴兵令の施行に伴い、明治37年屯田兵制度廃止を迎えます。

琴似兵村は琴似村になりました。
屯田兵制度のスタートからゴールまでを経験したのは琴似兵村だけでした。
琴似神社の境内に立つ記念塔には、琴似屯田兵240名すべての名前が刻まれています。