晩成社出発

明治16年(1883年)4月6日に13戸27人が横浜に集結。
北海道に向けて4月10日、煙をはく船は出港し、4月14日、午前11時、函館に入港しました。   

27名の中で北海道に上陸したことのあるのは、依田勉三だけでした。他の者は初めての来道です。津軽海峡から函館港に到着後、更に延々と東にある「十勝国」という陸の孤島へどのようにして、たどり着いたのか興味のあるところです。
 
依田勉三は27人が同じ道程をとって同じ日に入地すると思っていました。
しかし、早くも函館で勉三の意見に異を唱えるものも出てきます。陸路を嫌い海路で行く者たちと二手に別れたのです。
いつの時代も同じですが、人が集まればナンバー2が問題となるものです。
陸路も海路も幌泉(襟裳岬・現黄金道路)が命がけの旅となりました。 

『八甲田山死の彷徨』(明治35年)は冬の出来事でしたが、夏の「八甲田」になるところでした。

陸路を選んだ人たち
    陸路を選んで函館を出発したメンバーは依田勉三夫婦を含めて16名。 

 ・依田勉三(30)    晩成社専務      妻リク               
 ・藤江助蔵(34)    農商・炭焼    妻フデ(25)          
 ・山田勘五郎(53)   農業             妻ノヨ(43)      長男広告(19)   
 ・山田喜平(11)    農業 
 ・池野登一(42)      農業             妻アキ(42)  
 ・高橋利八(22)        農業             妻キヨ(26)  
   ・進士五郎(21)      農業             父文助(45)    母チト(42)  
 ・吉沢竹二郎(34)     大工          (  )は年齢    

明治16年の北海道は、道南・道央圏を中心に開拓は急ピッチに進んでいました。
依田勉三は、晩成社の社員たちには西伊豆を出ることすら初めてのことで、北海道の現状を知るには陸路の方が良いと思ったのではないかと思います。   

明治6年には日本初の本格的な西洋式馬車道(札幌本道)が札幌から函館まで完成していました。これはケプロンの提案でした。黒田清隆は開拓使10年間の予算の1割を使いこの本道を開拓したのです。函館は人口も多く経済も発展していたからです。
 (現在の国道36号と国道5号に相当する道路。ただし、静狩・礼文華峠を避けて
森町からは航路で室蘭)  

明治3年から明治14年までの約10年間に仙台藩士は、「岩出山藩612人、
亘理藩2,648人、角田藩278人、白石藩851人、柴田藩123人」の
合計4,512人もの人が北海道に移住していました。
道南の八雲には明治11年、旧尾張藩主徳川慶勝侯が72名を移住させています。

襟裳岬までの道のりは噴火湾、太平洋沿岸と比較的平坦な道のりで、アイヌの集落も続くので泊まることも可能、現実を知るには良い機会だと思えたのでしょう。