ケプロン報文と慶応ボーイ 

(写真は、札幌大通公園にあるケプロン銅像。対峙してケプロンを連れてきた黒田清隆の銅像もある)

依田勉三は18歳で横浜に出て宣教師ワッデルの英学塾に入り、2年後に慶応義塾で西洋学を学び福沢諭吉の教えを受けていましたが胃の病気と脚気のため2年で中退。地元伊豆で兄が勉三のために創設した豆陽(ずよう)学校で教鞭をとっていました。

勉三が東京三田に滞在のおり、塾生に売ってくれと預けられた雑誌の中に「ケプロン報文」がありました。この文章の一字一句が25歳の勉三を奮い立たせていきます。
ホーレス・ケプロンとは、明治4年わが国政府の招きに応じ、合衆国農務長官の要職を辞して、開拓使教師頭取兼顧問となり北海道開拓の大業に参画した人物でした。
 
<ケプロン報文>抜粋
「(中略)そもそも本島(北海道)の広大たるや、合衆国の西部の未開地にひとしく、その財産は無限の宝庫にして、これをして開拓をくわだてるに欲するところの物資ことごとく備わざるはなし。かかる肥饒の沃野を捨ててかえりみざること、日本政府の怠慢というても過言にあらず。・・・・けだし政府は真実なる人民を得んに、随意に移住せしむべし。

それ自他のためにこの地を開拓し、その土地を守る者あらばこれ国家の宝なり。
もし外国(ロシア)、この地を侵略せば、必ず後世の悔いとなるべし。わが探検は先例なく、日本国民にとって一大先駆たるべし。」