上フラヌ原野に植民区画が開放されても、交通の不便から開拓が遅れていました。
ところが、十勝線の工事開始と旭川村市街地の発展が大きな要因となり、入植者に人気が高まり団体移住では三重団体が225万坪の貸し下げを受けて明治30年に50戸ほど移住しました。
団長の田中常次郎は既に渡道していた板垣義夫を頼りに団体を上富良野にまで進展させた人物で、その後村会議員などを歴任しました。
その後、島津富次郎名義で管理人江田信哉が富山・石川県人を25戸募集し開墾を始め、明治30年に開かれた田中農場は約30戸小規模ならが島津に次ぐ優良農場で、開墾に熱心なフラヌ原野の草分け的農場となり当初は弟米八が経営し、後に亀八も移住しました。
いずれも自然環境にとまどいながらも開拓を進め、明治39年のエホロ植民区画地の開放もあり、耕作地は着々と拡大していきました。
明治33年(1900年)には富良野線が開通、上富良野駅も開業しため市街地が発展していきました。
明治36年に富良野村が上富良野村と下富良野村に分立したため、役場から遠い中富良野地区に分村の動きあり、大正6年に分村しました。
大正15年十勝岳の噴火で死傷者を出し田畑・牧場も大きな被害を受けましたが、義損金などにより復興、昭和26年に町制施行となりました。
ラベンダー発祥の地
昭和23年に曽田香料(株)の委託栽培で始まったラベンダーもピーク時には全国生産の80%を占めていました。
その後、合成香料の台頭で減反が進みましたが、昭和50年代からは観光資源として注目を浴びるようになり、今では加工品も作られています。