明治43年4月に公布された軽便鉄道法は、地方交通の安上がりな速成をめざした鉄路で、軌間寸法や勾配の制限も穏やかで出願手続きも容易でした。
ところが、会社や事業が主体となるため敷設をめぐって係争が絶えませんでした。
鉄道が国有化されたのは明治40年のことです。この40年にはすでに請願活動がはじまっており、明治42年10月には輪西(現在の東室蘭)と倶知安を結ぶ胆振鉄道の実地調査が行われ、倶知安村では村民全員が研究会を発足させ大会を開いていました。
予定線は倶知安を基点として、東倶知安(現在の京極)ー真狩ー西洞爺ー壮瞥ー西紋別(現在の伊達市)ー輪西に至る55キロでした。
ところが、函館経済倶楽部が猛然と反対をしてきます。
理由は、長万部ー輪西間の海岸と倶知安ー輪西間の内陸では沿線の生産品などの利害を述べ、函館と室蘭両港を短絡する長万部ー輪西間を推し進めてきました。しかも、これには苫小牧からの日高線も加わっており有利に展開。さらに、明治43年には北海道内18線の鉄道敷設が衆・貴両議院に請願され、その中に両線とも入っていました。
運動の先頭には、それぞれ代議士が立ち、両線の敷設運動は中央に持ち込まれて政争となりました。
その結果は長万部ー輪西間に決定。理由は、冬季間の積雪でした。運悪く明治43年2月、倶知安付近は3日間に渡って函館線が不通となり、新聞では連日雪害に悩まされる状況が報じられました。
一旦は、かなわぬ夢に終わりましたが、これで終わるものではありませんでした。
写真は現在の伊達市です