旭川ー稚内間の建設工事は明治31年6月から始められ、明治36年9月には名寄まで開通しましたが、名寄以遠は日露戦争勃発となり中止されました。
明治39年、樺太南部が日本領土となり地元有志たちによって請願書を貴族院に提出。明治41年6月大同倶楽部の浅羽靖らによって天塩北見鉄道案が議会に提出。さらに、明治42年にも政友会の東武ほか5人が建議案を提出。こうして名寄ー稚内間が決定しました。
名寄ー音威子府間については何も問題は起こりませんでしたが、以北の経路選択をめぐって政友会と大同倶楽部(憲政党系)間で対立が起こります。
音威子府から日本海に出るルートとオホーツク海に出るルートでした。
日本海に出るルートには、すでに沿線に4000戸2万人が入植しておりました。農耕適地が多いのと木材も豊富で石炭、石油資源もあり道庁は移住を奨励。
オホーツクの北見ルートは、頓別川流域にわずかに農業適地があるだけで、ほとんど道庁から牧場地として払い下げられた地帯でした。
しかし、ここは大同倶楽部の安達謙蔵議員や佐々木友房議員らが大地積を持ち、中央の資本家が鉱区権や山林所有権を持っていました。
明治45年5月、経路はオホーツク海岸間経由に決定し工事着手となります。
決定理由は、日本海経路は天塩川の水運が利用できるのと、小樽・留萌からの航路も発達しているが、オホーツク海岸は頓別原野など開拓地があるにもかかわらず輸送手段がないというものでした。
全線開通となった大正11年9月の「北海タイムス」によれば、沿線住民はこの線を「大同倶楽部線」と報じています。
大正13年に列車運転時刻が改正。
函館ー稚内間に急行列車が設定されました。函館ー名寄間が急行区間ですが、函館ー稚内間が20時間、旭川ー稚内間は9時間となりました。
なお、線名は工事中の大正元年9月に宗谷線と改称され、昭和5年4月には北見線、昭和36年4月には天北線と改称されます。