萬字軽便線 2
明治43年1月に、萬字軽便線の請願書が提出されました。
その要旨は「炭田は3000万坪、農耕適地は4000町歩あり戸数800、人口4000だが、鉄道未敷設のために採掘に十分の力を注ぎえずはもちろん、山林から切り出される木材と農産物の輸送上からも急要欠くべからざるもの」というものでした。
政・財界各方面からの働きかけが功を奏して軽便鉄道法による志文ー萬字炭鉱間23.7キロの敷設が決定。明治45年7月から実地測量が始まりました。
工事着手は大正2年4月でしたが、幌向川は上流へ進むに従い屈曲が激しく、断崖はますます絶壁となり、線路は高い築堤と深い切り取りを交互に施工するなど難工事の連続でした。
特に、13か所に架けた橋梁は、その延長に比べていずれも橋脚が高く、ポンポロムイ川橋梁にいたっては実に248mという高さで、架橋工事は困難を極めました。
タコ部屋が設けられ、作業員数十人が死亡した記録があります。
全線開通は大正3年11月ですが、開通後、沿線に鉱区権を持つ美流渡炭鉱、三菱美流渡炭鉱、朝日炭鉱など数多くの炭鉱会社が操業を開始。
このため大正11年9月、軽便鉄道方式の線路施設を改良し、線名を萬字線に改めました。