石北線ー石北東線、現・石北本線

石北線の上川ー遠軽間は大正9年の議会で起工が確定し、大正11年5月から実地測量が始まりました。この時、湧別線との分岐点をめぐって、遠軽と生野(現在の安国)との間で誘致運動が起きました。
話し合いが付かないまま大正13年10月に至ったときに「鉄道敷設延期」が通知されます。世界大戦と関東大震災の災害復旧のため工事延期が決定されたのです。

分岐点で争っていた遠軽と生野の住民は突然の延期に驚き、双方で話し合い分岐点の位置は鉄道院に一任し、延期撤回の請願運動を行うことにしました。

遠軽、丸瀬布、白滝などの沿線予定の各地区では、上京陳情団の時に弁当としてカボチャを持参しました。鉄道がなければ米が食べられないを政府や鉄道院に訴えるための作戦でした。東京の全新聞は「カボチャ団体」と報じられ、延期は撤回となり大正14年9月から選定が始まりました。

分岐点は遠軽停車場でした。

上川ー遠軽間は八工区に分けられ、延長329mの石北トンネル掘削は遠軽側からとなりました。工事は大正14年11月、遠軽ー丸瀬布間から始められ、昭和2年10月に開通。これ以降、順次開業し遠軽側を石北東線としました。

昭和7年6月の石北トンネル開通で石北の東、西が結ばれ昭和7年10月から全線の開業となり、同時に新旭川ー野付牛(現・北見)間を石北線と改称されました。