ルベシベ線-石北西線、現・石北本線

石狩国と北見国を結ぶ線路は明治40年代ころから望まれていました。大正2年に滝川ー下富良野間の開通や、大正5年の勇別軽便線の開通で、旭川と北見への交通が旭川を通ることなく両側から行けるようになったからです。

明治45年1月、旭川ー遠軽間の鉄道敷設の請願書が鉄道員総裁に提出されました。この時にも、衆議院員の東武に依頼しています。旭川の発展には緊急事態でもありました。一方、遠軽村では大正8年2月に旭遠鉄道速成期成会が結成。
このように旭川ー遠軽間の敷設運動は沿線を含めて年ごとに高まりました。

特に、強く叫んだのは愛別村村長の太田竜太郎でした。通信大臣兼鉄道院総裁の後藤新平とは同郷の熊本県衆議院津伸で、後藤とは旧知の間柄でした。太田は上京して建設の建言を行いました。翌明治44年に技師18人からなる調査団が愛別村に派遣され、太田とともに石北線敷設に関わる実地調査を行いました。

しかし、石北鉄道の敷設には多額の工事費が必要で容易に採択されませんでしたが、大正6年6月の議会で初めて採択され、大正9年度から四か年の継続事業としてルベシベ線旭川ールベシベ(現在の上川)間の着工が決まりました。

ところが、大正8年12月に比布村から分岐点を比布停車場に変更の請願が出されたのです。愛別、ルベシベら通じる鉄道は、地理的にも比布は有利でした。旭川停車場を分岐点にすると、比布まで宗谷線と並行して線路を敷設することになります。

線路実測は大正9年4月から始まり、11月には新旭川ー伊香牛(いかうし)間の選定を経て用地買収が行われました。この時に、宗谷線の旭川ー永山間に新旭川停車場を新設し、ルベシベ線は新旭川停車場分岐となることが初めて明らかになりました。

工事は、新旭川ー愛別間が大正10年3月の着工で大正11年11月の開通、愛別ールベシベ間は大正12年11月に開通しました。
新旭川ールベシベ間44.9キロの開通とともに、ルベシベは上川に、ルベシベ線は石北西線と呼称しました。運行は客貨混合列車一日四往復で、所要時間は2時間でした。