釧網(せんもう)線ー現・釧網本線

現在の釧網本線となる釧網線の敷設が完成するのは昭和6年9月のことです。
厚岸ー網走を結ぶ予定線の話は明治29年から出ていましたが、話が二転三転する中で、敷設路線が地元の請願が相次ぎ四つ巴の争いになりました。

明治42年からはじまった釧路港の築港工事に伴って釧網線運動が展開されるや、厚岸地区では厚岸ー網走間の厚網線、根室地方では根室ー網走間の根網線の請願。更に、明治44年7月には網走地方からは網走線の延長による網根線が出されました。
それぞれ港湾を持つ釧路、厚岸、根室、網走が港湾発展のための交通手段として運動が競合することとなりましたが、日露戦争後の不況で建設費が抑えられていました。

しかし、大正4年ころから再度運動が活発化してきました。今度は政治家を巻き込んで、強力な支持を求め始めます。網走は政友会北海道支部長の木下成太郎衆議、斜里村では斜里経由を求めて政友会の東武衆議、小清水村では村を経由する運動で政友会と対立する憲政会の小池二郎衆議。

こうした請願が功を奏して大正8年、「釧路国釧路および北見国斜里を経て北見国に至る予」として釧網線が確定しました。

大正14年11月、網走ー斜里間が開通。釧路側は大正12年5月から開始されましたが、財政難で大正16年完成予定が昭和10年完成予定に繰り延べさせました。
これに対して、釧路で市民大会が開かれ昭和6年に繰り上げられました。

こうして、別保(現・東釧路)ー標茶間は昭和2年9月に開通。
標茶ー弟子屈間は昭和3年の開通、斜里ー札弦間は昭和4年11月、弟子屈ー川湯間は昭和5年8月、川湯ー札弦間は昭和6年9月に開通。これで別保ー網走間166.3キロが全線開通となりました。
釧路ー網走間の所要時間は5時間30分、これまでの池田ー野付牛経由の網走線に比べて127.9キロの短縮となりました。時間も4時間の短縮でした。