道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

羽幌町 1965年(昭和40年) 28分 白黒 音声あり    札幌テレビ放送

私の解説を含めて感想を書いています。

羽幌川には江戸時代から渡船場を設けアイヌ父子が渡し守をしていたといいます。明治18年に苫前に住んでいた工藤茂吉という人が、家族を連れて川岸に移住してきました。この頃の羽幌には民家はなく、漁場と納屋があるだけでした。
明治19年、青森県人立崎熊次郎がニシン漁をはじめ、更に翌年石川県人斎藤知一らが20数人の漁夫を使って捕鯨をはじめ石川・青森からの漁夫が次第に増え、越年する者も現れてきました。
明治28年、羽幌・築別原野の貸し付け区画を設置、翌年には福井・富山はじめ各地から約400戸が移住してきました。
明治29年が開拓開基となります。
明治30年に苫前村から分離し羽幌村の行政がスタートしました。

羽幌炭鉱
明治21年、道庁技師により苫前炭鉱の調査を行い明治・大正と採炭を進め、昭和14年羽幌炭鉱が本格的に稼働。
昭和36年には年産百万トンを出炭し石炭中心都市として発展しましたが、後に閉山になりました。
この石炭産業とともに、羽幌の町は成長していきますが、他の炭鉱の町とは違っていました。
立坑547mで1日1093tの採掘量を誇っていましたが、石炭産業の改善に努力しオートメーション化・リモートコントロールで毎時200tの石炭が巻き上げられていました。安全に徹し改善改良を重ね模範的な炭鉱でした。
町の産業は炭鉱で働く人が6割を占め、町の高台には炭鉱団地を造りました。
さらに、炭鉱のある場所は市街地から20キロも離れているため、炭鉱地に学校を作り、この時代には珍しいプールを作り落成式を盛大に行っています。
炭鉱閉山と同時に鉄路も廃線になりますが、当時はまだ鉄道が引かれており「羽幌駅」の風景もあります。

第二位の産業
明治29年、入植した開拓者の努力で町の基礎が築き上げられていきました。
街づくりの基本は農業で、炭鉱人口に次いでいます。
「土地と寝起きして町が作られてきた」が印象的です。
昭和33年には「パイロットファーム」66戸が新酪農に取り組み始めました。
現在の羽幌農業は日本の最北限で栽培された食味のよいお米「オロロン米」を中心にグリーンアスパラガス、長いもなどの農産物が魅力です。これも先人の努力の積み重ねでした。

羽幌橋の完成
昭和38年に国道232号に羽幌橋ができました。
人口3万人となり、児童会館の落成式が行われています。この会館は町民の悲願だったようで、5300万円の費用がかかりましたが、なんと町民の積立のお金で作られました。松本町長のテープカットも映されています。

漁業
昭和9年には3万2千石と羽幌史上最高の漁獲高を上げたニシン漁も戦後衰えました。
羽幌港の防波堤工事が行われ、漁業の活性化に取り組んでいます。
漁民アパートなどもその一つで漁業の改善も同時に進行しています。漁業は転換期を迎えており、秋の漁は地引網で船が戻るのは夕方で、港で陸揚げし市場でセリが始まるのは夜です。
現在の羽幌漁業は日本一の漁獲量を誇る甘エビやホタテ、ナマコ、タコ、ウニなどの海産物です。

行楽と観光
サマーフェスティバルが盛大に行われている風景です。
列車は羽幌駅に到着。士別や剣淵からも観光に訪れています。目指すし「海水浴」で、海にボートを浮かべて楽しむ姿は池とは違い、漕ぐのは大変。

天売・焼尻島
2島で学校に通う子供たち95人を、社会勉強として町長が招待しています。
当時、島には一日3往復のフェリーがありました。一番の学習は島に信号機が無いので、横断歩道の渡り方でした。
羽幌港から焼尻に1時間10分で「夢の浮島」へ。焼尻から50分で天売島へ。
昔はニシン漁でにぎわった島ですが、これからは観光地として羽幌町の目玉になるでしょう。

オロロン鳥(ウトウ・ウミガラス)などの海鳥の繁殖地で国の天然記念物に指定されている天売島には約300種類の鳥の聖地です。
また、焼尻島は島の三分の一が約50種類の自然林の森に覆われ、オンコは約5万本が繁茂し国の天然記念物に指定されています。日本最北の国定公園に指定されているふたつの島、世界でも珍しい、人と海鳥が共生する島「天売島」と羊と緑の原生林の島「焼尻島」は夕陽の美しい、自然に恵まれた町です。