道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

滝川市 1965年(昭和40年) 29分 白黒 音声あり  

滝川(たきかわ)市名の由来は、空知川の語源であるアイヌ語のソーラプチペッ(滝のある川)を意訳したことによります。
滝川の開基は、明治23年(1890)7月に屯田兵が入植したことが始まりでした。従って、このフィルムを作成した年は開基75周年になります。

国木田独歩・石川啄木
国木田独歩が明治28年(1895)の秋9月に空知川の岸辺を目指して空知太駅に降り立ったとき、空知川沿いの国道38号はまだありませんでした。鉄道にしても、基点である滝川駅からの根室本線は通じていません。
開通は大正2年(1913)12月です。従って、独歩は赤平市の茂尻元町へ行くため歌志内へと迂回しなければなりませんでした。明治41年1月に釧路へ向かう石川啄木にしても旭川を経由して現在の富良野線を利用したのです。
滝川は今でも交通要衝の町です。明治時代に多くの文豪が町を通過していきましたが、当時の情景を残しており、その碑が立てられています。

昭和40年の滝川
開基75年経った滝川市の産業や経済が盛りだくさんに映されており、今日(55年後)と大きく変わったことが良くわかります。
まず、中央バスが一日450本運行していたといいます。車社会はまだですが、それにしても滝川駅から降りてくる通勤客は今と比較になりません。滝川市を中心にバスで通勤していたサラリーマンの人口が経済を活性化させていたのでしょう。
産業は製造業が主体で、原木からの合板、ヒューム管、製氷工場ではアイスクリームも作られています。空知米穀では精米所がフル回転。石狩川を渡った新十津川町では金滴酒造も活気がありました。
畜産試験場のヒツジの群れも北海道らしい風景です。北電の火力発電なのでしようか22万5千キロの電力生産です。
国道12号が町中を通り、その中心地にデパートがあります。

この55年の間に、これらの産業は一体どこに行ってしまったのでしょう。
そのような疑問が映像を見ていると思いました。現在、元気なのは松尾ジンギスカンくらいと思います。

現在、国道12号はバイパスが作られ街中を走る車はめっきり少なくなりました。従って、バイパス沿いに大型の小売店が乱立し、より街中は寂しくなり車社会は便利ですが、街を破壊する力もあるのでしょう。

北の泉岳寺
国道12号で滝川市街に入る入口に赤穂浪士の銅像が建てられています。これは昭和31年の建設とは知りませんでした。 
                                         以上