道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

歌登町 1963年(昭和38年) 13分 白黒 音声あり 

歌登町はオホーツク海の枝幸町に隣接した内陸にあった町です。

開拓のはじまりは明治30年(1897)、秋田県書記官の桧垣直右が上幌別原野に申請を出し、管理人と雇人3名が入地し、ムギ・ソバ・キビなどを試作したのが開基となります。(桧垣農場)
ただし、映像では明治31年になっています。その翌年石川県から15戸が入植し開拓が本格化しました。

町名の由来はアイヌ語のウタ-ヌプリ(すりばち型の-山)からです。

オホーツクから20キロの内陸地のため交通の便が悪く僻地でした。
寒冷地のため「米」が取れず「ジャガイモ」が農業の主力。大正2年澱粉製造が試みられ、農業の主産物はジャガイモへと移行。
第一次大戦の影響もあり澱粉の景気が良く、当時は小規模工場の新設が相次ぎました。工場が50を超えるほどありましたが、みな小さな工場。
それでも5万トンの生産で8000万円の売り上げがありました。

昭和4年にパンケナイに金鉱が発見され、翌年操業開始となりましたが、山奥であったため流通は遅れました。鉛10%、亜鉛10%、銅10%の割合で、1日50tの生産となりました。

この頃、乳牛が導入され酪農のはじまります。
明治末から盛んだった造材業に加えて、大日本ベニア工場も創設され活況を呈します。

しかし、戦後になると食糧政策の転換や冷害が続き、次第に酪農を奨励していくことになります。
1960年(昭和35)代には乳牛飼育数、千頭を突破し乳量は1万石となり、肉牛も導入されました。

昭和37年に町制施行しましたが、鉱山の閉鎖、農業経営の窮迫で離農がはじまり、過疎化が進みました。

歌登町の町民の願いは交通でした。鉄路がつながることで町の発展を期待していました。
それは、宗谷本線の美深駅から枝幸をつなぐ「美幸線」の鉄路でした。
計画では美深より仁宇布を経てオホーツク海枝幸町の興浜線北見枝幸駅に至る予定でした。開発には10年はかかると言われていましたが、町民の期待は大きかった。
しかし、実際には美深駅から仁宇布駅までで中止され、昭和60年には美幸線も全線が廃線となっています。

2006年(平成18年)に枝幸町と合併しました。

写真は歌登鉱山跡です