徳富蘆花「名寄」ー名寄市
明治期の宗谷本線を描いた徳富蘆花の「みみずくのたはごと」に収められた「名寄」から。
「明治43年9月19日。朝、神居古潭の停車場から乗車。金襴の袈裟、紫衣、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。
旭川で乗換え、名寄に向かう。旭川からは生路である。
永山、比布、蘭留と、眺望は次第に淋しくなる。紫蘇ともつかず、麻でも無いものを刈って畑に乾してあるのを、車中の甲乙が評議して居たが、薄荷だと丙が説明した。
やがて天塩に入る。和寒、剣淵、士別あたり、牧場かと思わるる広漠たる草地一面霜枯れて、六尺もある虎杖が黄葉美しく此処其処に立って居る。所詮泥炭地である。車内の客は何れも惜しいものだと舌鼓うつ。
余放吟して曰く、
士別では、共楽座など看板を上げた小端葺の劇場が見えた。
午後3時すぎ、現在の終点駅名寄着((明治36年9月名寄駅開業)。
丸石旅館に手荷物を下し、茶一ぱい飲んで、直ぐ例の見物に出かける。
旭川平原をずっと縮めた様な天塩川の盆地に、一握りの人家を落とした新開地。停車場から、大通りを鍵の手に折れて、木羽葺が何百か並んで居る。
多いものは小間物屋、可なり大きな真宗の寺、天理教会、清楚な耶蘇教会堂も見えた。店頭で見つけた真桑瓜を買うて、天塩川に往ってみる。
可なりの大川、深くもなさそうだが、川幅一ぱい茶色の水が颯々と北へ流れて居る。鉄線を引張った渡舟がある。余等も渡って、少し歩いて見る。
多いものはブヨばかり。倒れた木に腰かけて、路をさし覆う七つの葉の陰で、真桑瓜を剥いた。甘味の少ないは、争われぬ北である。最早日が入りかけて、薄ら寒く、秋の夕の淋しさが人少なの新開町を押かぶせる様に四方から包んで来る。二たび川を渡って、早々宿に帰る。
町の真中を乗馬の男が野の方から駈を追うて帰って来る。馬蹄の音が名寄中に響き渡る。
宿の主人は讃岐の人で、晩飯の給仕に出た女中は愛知の者であった。隣室には、先刻馬を頼んで居た北見の農場に帰る男が、客と碁をうって居る。按摩の笛が大道を流して通る」