厚田村は明治以降、異色の人物を生んでいる村です。
全国から移民をしてきた北海道の縮小版ともいえるかも知れません。 

そのような中に、梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎又は鉄五郎)がいました。彼は子母澤 寛(本名・梅谷 松太郎)の祖父にあたります。網元となり、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営し村の顔役となり、御家人くずれのやくざ風な人だったらしいといいます。 
                                                      また、厚田公園には創価学会二代目会長の戸田城聖の生家が保存公開されています。推理作家の楠田匡介や横綱吉葉山もここで生まれました。
松山善三は小説「厚田村」で佐藤松太郎(鰊番屋)を描きましたが、家督を継いだ佐藤正男は奨学資金制度を設け、北海道の小説家島木健作と和田芳恵を育てます。この「厚田村」は北海道を知るにはベスト5に入るでしょう。 
                                                  子母沢寛は伊藤整との「道産子対談」の中で、次のように話しています。 

「北海道特有のものと江戸から持ち込まれたものとが入り混じった2つの雰囲気が村にはありましたね。ぼくのおやじは漁場を持っていて、そのうえに宿屋を経営し、さらに東北方面からの出稼ぎ漁夫相手の女郎部屋もやってたようです。
(中略) この老人たちが、江戸のことをなつかしがって話しているのを、はたで聞いていたおかげで、江戸など全然関係ない北海道の寒村にいたぼくが、江戸を舞台にした小説をかけるんですからね」  

この老人たちとは、幕末に江戸(上野・彰義隊)で敗れ、箱館(箱館戦争)で敗れて
厚田に逃れてきた7人の江戸の侍たちのことです。その頭格が子母沢寛の「おやじ」でした。                                                   幕末から明治維新にかけての歴史小説で、子母沢寛の影響をうけなかった人は
いないといいます。司馬遼太郎もその一人でした。 

写真は戸田城聖の生家です