厚田村は石狩支庁の北部にあった厚田郡に所属していた村です。2005年(平成17年)浜益村と共に石狩市へ編入され、村はなくなり厚田区となりました。

日本海を小樽⇒石狩⇒厚田⇒浜益⇒増毛⇒留萌⇒小平と北上するのは、江戸の末期から明治に鰊が辿った沿岸の町です。
現在も漁港朝市として、いしかり湾漁協「朝市」・厚田港朝市・浜益ふるさと市場(朝市)が開かれ、近隣や遠くからも水揚げされた魚介類を求めて多くの人が訪れています。
ちなみに三市場とも国道231号を北上するとあります。

「あつた」という地名は江戸時代初期(1661年)の松前藩「新御国絵図」にすでに記載されており、松前藩によって「アツタ場所」が開かれていました。     
「場所」といわれるのは、松前藩がアイヌと交易する区域を「場所」とよび、藩が家臣に給与の代わりに場所の権利を与えていたものです。この制度は米の穫れない松前藩独自のもので、場所を与えられた家臣は年に1~2度、船で訪れアイヌと交易をおこないました。アイヌは干鮭、熊や鹿の毛皮などで、家臣は米やたばこ、鉄製品などでした。
江戸の後期には、「場所」を運上金(税金)と引き換えに場所請負人とよばれる商人にまかせるようになります。和人は永住したのではなく、ニシン、アキアジ漁の季節的出稼ぎ漁場としての地域であったと思われます。

松前藩は家臣に禄の代わりに漁場を与え、家臣は漁場経営を商人に代行(場所請負制)をさせていました。しかし、和人は永住したのではなく、ニシン、アキアジ漁の季節的出稼ぎ漁場としての地域であったと思われます。

天保11年(1840年)以降は、増毛、天塩、宗谷方面にも和人の出稼ぎは許可されましたが、それまでは厚田場所が西蝦夷地の北限で、1848年(嘉永元年)厚田神社が創建されています。

厚田に和人が定着するのは安政5年(1858年)のことで、漁場開拓が始まります。漁場ではありましたが、ここから本格的な鰊の歴史がはじまりました。