国後目梨のアイヌ蜂起

十勝の沿岸を和人が頻繁に通るようになったのは1785年(天明5)からです。
1773年(安永2年)に松前藩より、商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、労働力としてアイヌを酷使するようになっていました。
国後(クナシリ)はアイヌ人が住んでいるところで、和人が入り込んで酷使・虐待(これが半端なものでなかった)を繰り返していたのです。

そのころロシアの南下政策が始まり、アイヌ民族がロシア側に付けば国土を失う危機感が生まれたのです。
 仙台藩の藩医で経世論家である工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著し、ロシアの南下と蝦夷地の無防備を訴え、これを老中田沼意次に提出。
田沼は幕府として初めて蝦夷地調査に派遣しました。
 
そうこうする内に、アイヌの怒りは収まらず1789(寛政元年)、「国後目梨のアイヌ蜂起」が発生。
松前藩はロシアのこともアイヌのことも幕府に報告していませんでした。

このことで、幕府は東蝦夷地を幕府直轄1799(寛政11)となり、1804(文化元年)にアイヌ民族の宗教を含めた統括として蝦夷三官寺(有珠の善光寺、様似の等澍院、厚岸の国泰寺)が建立する運びとなります。

北海道の東でノッピキならない事態が発生し、この事態を治めるために幕府が送り込んだ人物が近藤重蔵でした。
道南の松前から根室に至る陸上歩行が頻繁となり、十勝の広尾が中間点となりました。
広尾は襟裳岬から北上して十勝に入る入口にあたります。しかし、断崖が続く蝦夷三大険路の一つでした。