寛政11年(1799)、東蝦夷地が幕府直轄となり、近藤重蔵は、その前年に下見巡察として国後・択捉島を見分し択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てました。
ロシアの南下政策を防ぐには、ネモロ(根室)・クナシリ(国後)・エトロフ(択捉)のアイヌ人の支配が必要でした。

江戸時代の交通手段は歩くか船です。
江戸から蝦夷のネモロ(根室)に行くには、津軽から松前に渡り、後は永遠と東に向かって噴火湾・太平洋沿岸を見ながら歩き、襟裳岬を回り十勝・厚岸・根室にいたるコースでした。

この間で最大の難所が幌泉(現えりも)から広尾間だったのです。

襟裳岬から百人浜を過ぎると庶野となり、猿留山道を経て目黒(かつて目黒源吉という番屋の番人がいた)、ピタタヌンケプに達して十勝(広尾)に入っていくのですが、ピタタヌンケプから広尾間のルベシベツが難所でした。
この難所を近藤重蔵は自費で道の開削を命じました。これが北海道の道づくりの始まりと言われています。 

この道が現在の国道336号開削(黄金道路)となっていくのですが、道とはいっても歩ける程度のものでした。
明治以降、陸路を歩いて十勝国を目指す開拓者はこの一本道が全てでした。