開拓の始めは豚とひとつ鍋

ひとつ鍋

晩成社が最初に鍬を入れた場所に「帯広発祥の地」の碑があり、「開拓の始めは豚とひとつ鍋」が刻まれています。
この句は明治17年、幹部の渡辺勝が「落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋」と詠んだ句に、勉三が「開拓の始めは豚とひとつ鍋」と返したものです。
晩成社は実質的にはこの時に分解していました。

勉三は開拓に入って4年目の明治19年、34歳で一つの決心をします。
帯広の開拓を失敗と受け止め、牧場経営を提案、場所は現在の大樹町晩成。
幹部たちは非難しますが、勉三は帯広を見捨てるのではなく、牧場を成功させ稼いだ金をここにつぎ込もうと説得します。

「大樹町で牧場を始める」

勉三は一人で、当縁村(現大樹町)に移り牧畜業を始めます。
1900haという土地の払い下げを受け、家畜を青森に買い付けに行き、40頭を船で大津(十勝川河口)まで運んできました。これらの事業も国の補助は一切ありません。

明治23年には、牛は130頭、馬40頭を飼育するまでになります。
牛の乳をしぼり、バターやチーズをつくり、牛肉の缶詰まで製造しました。
しかし、晩成社には販売の見通しがありませんでした。

十勝はまだ陸の孤島で、人口が増えている札幌までの道が開かれるのは明治40年まで待たなければなりませんでした。

勉三は明治27年、肉の販路を求めて函館に肉屋を開業しました。
店員として採用したのが後の妻となるサヨでした。
ところが、牧場から生体で輸送した家畜は、黄金道路―日高路―噴火湾沿いで函館についた頃には日数でやせ細っていました。
勉三はサヨを伴い当縁村(現大樹町)に戻ります。