バッタの大群 

明治16年、晩成社は現在の国道38号と南6丁目線が交差するあたりに最初の鍬を入れて開拓は始まりました。(依田勉三の銅像が建てられています)

しかし、早くも開拓の現状に驚き3戸4人が逃亡します。
10月には鈴木親長・カネ・弟の文三郎が入地しますが、逃亡して伊豆に戻った者の噂で第二弾の応募者はありませんでした。

更に、最悪なことにバッタの大群が襲い根こそぎ収穫を失ってしまいます。

明治16年8月4日の晩成社幹部の鈴木銃太郎の開拓日記に次のように記されていました。
「晴れ。午前9時突然蝗虫南ウレガレップ地方より来り空中に飛揚す。移民く石油の空缶銅盥等を鳴らし或いは炬火を焚き専ら防禦す。然かも遂に蝗虫罹り穀菜皆無野に草色を見ざるに至れり」  

地中から掘り出したバッタの卵や成虫は積み上げられ、土をかけて固められて塚状にしました。この塚はバッタ塚と呼ばれました。
十勝の蝗虫は、明治12年から18年にかけて大発生したのです。
その群れは日高、胆振や札幌方面にまで飛来しました。札幌の手稲区にはバッタ塚があります。
16年から17年は渡島、釧路地方にも及びました。