開拓使新設
明治2年6月4日、政府は旧佐賀藩主鍋島直正(なぺしまなおまさ)を開拓督務に任命しました。「蝦夷地は皇国の北門」というのが朝廷の考えでした。
鍋島は名門で早くから蝦夷地に関心を持ち家臣島義勇に蝦夷地を調査させていたこともあり、開拓御用掛に島義勇や松浦武四郎がなりました。
7月8日、開拓使が新設され鍋島直正は初代長官になり、開拓使庁は東京芝の増上寺に設けられ、島義勇・岩村通俊・岡本監輔・松本十郎・竹田信順らが開拓判官に命じられました。
8月15日、蝦夷地一円を北海道と改め、11か国86郡を置くことが公布され、日本の本土宣言となります。
鍋島の在任期間はわずか二か月あまりで、一度も北海道に渡ることはありませんでした。後任に東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)が長官となります。
鍋島だけではなく、明治がはじまってからの五年間は方針が定まらず二転三転と話が変わり、それにつれて人も変わるありさまでした。
これに一番振り回されたのは戊辰戦争で敗者となった仙台藩伊達一族でした。