石狩平野(いしかりへいや)

北海道最大の平野で、北は増毛山地、東は夕張山地、南西部は余市岳恵庭岳などで囲まれており、北海道最大の一級河川である石狩川の中流・河口付近にあたり平野の西部には札幌があります。

石狩振興局空知総合振興局にまたがっており空知管内を特に空知平野とも呼び、最北端は空知管内の深川市になります

平野の北部は、夕張山地と増毛山地の間に、石狩川などの河川に運ばれた土砂が堆積して形成されました。一方、西部や南部は、約6000年前には現在の岩見沢近くまで浅い海が入り込んでいましたが、海水面の低下や河川が運ぶ土砂によって陸化し、現在のような平野となりました。

平坦で、石狩川の河口から100km奥でも標高は30mにも満たないくらいです。そのため川は蛇行が多くなり、長い間氾濫(はんらん)を繰り返してきました。その結果、河川後背地には湿地が広がり、そこに生育する湿性植物の遺骸が充分に分解されないまま堆積して広大な泥炭地(篠津原野など)を形成していました。

藻岩山展望台から

石狩平野は日本海岸式気候に属すため冬季の積雪量が多く,亜熱帯の植物である「稲」の栽培にはとても向かない土地でした。
泥炭地の改良と同時に稲の品種改良もの努力も行われていました。江戸時代にも函館の近くで細々と稲作は行われていましたが、明治6年札幌(現・北広島市)の農民である中山久蔵が,水田にお湯を注ぐなどの努力の末に耐寒品種「赤毛」の栽培に成功。
これがきっかけとなりやがて「坊主2号」「坊主6号」などの優れた耐寒品種を生みだすことになります。

平野の石狩川左岸地帯は、早くから道路、鉄道が整備され、札幌をはじめ江別、千歳、岩見沢、滝川、深川など多くの都市が発達して、人口も200万人を超え北海道の3分の1以上を占めています。
一方、右岸側は対照的に新篠津村、月形町、浦臼町など農村地帯となっています。